小さい頃から自分で何でもする子だった
私は小さい頃から、自分でできることが多かった(仕方なくやっていたのか?)
恐らく幼稚園にも入らない頃3~4歳だろうか、踏み台を使ってガスコンロの前に立ち、ヤカンを火にかけてお湯を沸かし、紅茶を自分で入れていた記憶がある。
食パンの場所とトースター、ピーナツバターを出している記憶があるので、恐らく自分でトーストを焼いて食べていたと思う。
小学校に入ると、食パンと紅茶の朝食を準備して弟たちを起こし、学校に行く準備をさせていた。
(その時母は寝ていたことしか思い出せない)
中学校~高校では、家事の一部を分担した
「女の子だから」「お姉ちゃんだから」という理由で、今まで通り朝食の準備と弟たちの世話に加え、夕食の後片付けが私の仕事になった。
高校になると更にそこに、お弁当作りと夕食の準備が追加された。
学校帰りに制服のままスーパーに行き食材を買いに行く。帰宅後夕食の準備をして、弟たちに食べさせて片づける。
食費は1日1000円以内だったかな?
お小遣いはもらってなかったので、やりくりして余ったらお小遣いにしていいと言われていたので、節約して残ったお金で本を買うのを楽しみにしていた。
母から料理を習ったことは無いので、メニューのレパートリーが少なく、毎日ハンバーグとカレーと明太子スパゲッティとグラタンの繰り返しだった気がする。
忘れられないエピソード
休日の朝、お腹が空いたので冷凍ピラフを自分で炒めていると、寝室で寝ていた母に怒鳴られた。
「うるさい!二日酔いで頭が痛いからガンガン響く!」
(お母さんが起きてこないから自分で作ってるのに、なんで文句言われなあかんの?)
またある時は、いつものように明太子スパゲッティを作ったら、その日は母も夕食を一緒に食べる日だった。
食卓を見た母は渋いかをしながら言った
「うわぁ、食べるもんがないなぁ」
(これでも頑張って作ったのに、そんな言い方はないだろう)
なんでもないエピソードなのだが、その何気ない一言がとても悲しくて、いまだに思い出して胸が痛くなる。
トラウマになってしまった出来事
これもとある休日の昼時。
いつものようにパチンコに行って母が帰ってこないので「お腹が空いた」という弟に焼きそばUFOを作ってあげた。
でも、作り方を間違えてしまい、とても味の薄い焼きそばになってしまったのだ。
それでも弟は「姉ちゃん、おいしいわ」と言って、美味しそうに食べていた。
これも何でもない出来事かもしれないが、今でもこの光景は脳裏に焼き付いており、切なくて涙が出てくる。
失敗してごめん。美味しくないご飯でごめん。
今私はシングルで2人の子どもを育ててきたが。
できるだけ手作りのご飯を食べさたいと思って実践してきた。
インスタントラーメンやコンビニ弁当などを食べさせることができないのだ。
このUFOの一件があり、切ない思い出がフラッシュバックするので。
お弁当系は自分が食べれないから、子ども達にも食べさせられない。
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母は「毒親」だった
逆に子ども達にとっては「たまにはコンビニ弁当食べたい」「インスタントラーメンも食べたい」となっているので、何が正解なのかは分からないが。
反面教師
幼い頃は私は、自分でできることは自分でするのが当たり前だと思っていて、何の抵抗もなかった。
中高生になると、手伝うこと自体に反発は無かったが、母親のだらしなさや不条理な言動には納得できないことがあり、「絶対お母さんみたいにはならない!」と思っていた。
高校生当時の自分のモットー三原則
「自分がされて嫌なことは人にしない」
「自分のことを棚にあげない」
「人に見返りを求めない」
振り返ってみたら、全て母に対する反発だということに気が付く。
逆に、母がいたから私は反面教師で頑張ってきたので、今の自分があるのだと感謝の気持ちすらある。
そんなトラウマを抱えつつ、介護を続けている日々。