全ての人格を否定され、そこから生まれ変わった 離婚の1番の原因

いわゆる嫁姑問題?

これまでも話してきたように、私の母は良く言えば自由人、悪く言えば自己中

ただし、全ての人から嫌われるかというとそうでもなく、田舎の親戚付き合いの中では、まぁ「そこそこ」という感じだったと思う。
普通に愛嬌はいいので(=悪いことしても全く悪いと気が付いてない)、表面的には悪い人ではない。

本人の育ってきた環境が母の人格形成に多大な影響を与えたのであって、母には責任がない(自分がどう生きるかということは別問題として)

・・・と、含むことは多いのだけど

言うならば、娘息子である私達姉弟は、大なり小なりの被害を被っているので、諸手を挙げて全肯定はできない・・・というのが正直な所。

自立して社会に出て、非常識を知る

実家で手伝いをしながら学校に通っていた中高生時代までは、母親のことはそれほどおかしい(?)とは思わなかった。

高校卒業して名古屋の看護学校に入学。実家を出て一人で生活し始めた頃から、周りの友人の両親との微妙な違和感を感じ始めた。

友人の実家からは、お菓子や食料を送って来る。何ならお小遣いも送ってくる。
方や我が家の実家からは、そういったものは一切ない。
むしろ「お金を送ってくれ」という電話は、再三かかってくる。

それでも、実家に帰る時は事前にお金を送り、仕送りもしていた。
お母さん大変だから仕方ないと思っていた。
毒親と娘の、お金にまつわるエトセトラ

そんなある日、盛大な違和感を感じる出来事があった。

「○○さんは、娘さんから”これで旅行でも行って”ってお金送ってもらったんだって。いいねぇ。あんたはそんなの一切送ってくれないやん」

私は、高校卒業から母に1円も出してもらわずに看護学校に進学した。
定時制の看護学校通いながら、看護助手として働いて稼いだお金は仕送りした。
帰省の度にお金は送っている。
「それだけで十分だ」と何で思わないの?感謝する気持ちはないの?

多分これは私が20歳になったくらいの出来事。
私はこの日泣いた。
今まで母のためにと思っていたこと全てが、母にとっては「当たり前」であり、更に「もっと」と要求するんだ。
私は何のために頑張ってきたんだろう??
私も自立して働き始め、成人となったこの時期。母への違和感が強めていく。

母に対する嫌悪感と結婚

看護師として働き始めた5年後、結婚をすることになった。
その婚家の姑と母は、当然上手くいく訳がなかった。

何とか上手く付き合おうとしてくれる夫とその両親。
自身の非常識さに気が付かない母。
挙句の果てに、母までもが姑を毛嫌いするようになり、両家は全く上手く行かなくなってしまった。

そもそも姑は、最初から母の事は毛嫌いしていたので、こうなることは必然だったのかもしれないけど。

そして、その娘である私は「あのお母さんの娘だから」というレッテルを貼られ、フィルターを通した目で見られる。

結婚前は礼儀作法を徹底的に教え込まれた「ゆつきさんは知らないだろうから教えとくわね」と。
結婚後生まれた長男が人見知りすれば「育て方が悪いから」

私は非常識な母に育てられ、常識をしらない人間なんだと落ち込んだ。
それでも、自分を変えて成長して、子ども達にちゃんと伝えたい。
私と同じ思いはさせたくないという一心で、姑に仕え、言われたことは忠実に守った。

事件勃発

私が結婚後に母も大阪に出てきて弟と暮らしていた。

お正月に私が息子を連れて元旦那と一緒に家に挨拶に行こうとした時のこと。

当時狭いワンルームに住んでいた母は「絶対に家には来て欲しくない」と言い張った。
姑は「普通は家に挨拶にいくでしょう。お金がないのに外で会うのもおかしい」と真っ向から意見が対立した。

母は「こんな狭い所恥ずかしい」「汚いし、見られたくない」と応じない。
狭いのは知ってるし、汚いのは片づけて清潔にすればいい話だと言っても絶対に応じない。
姑も断固「うん」と言わない。
間に立った私としては、姑から責められる一方。
母には嫁である娘の立場を考えて、嫌なことでも我慢して欲しかった。
そう言っても、受け入れてもらえなかった。

こうして、事あるごとに母は姑と対立。私は間に入って苦しみ、それは母への嫌悪感を強めることになってしまった。

とうとう夫も母を憎むようになっていた。

人格を否定され、私はゼロからスタートした

そんな時間が何度も重なり、関係修復は困難になっていた。

それでも私は多少なりとも成長し、姑には「成長したね」と認めてもらえることも多くなっていた。

しかし、そんな私の奢りを地の底に陥れる一言

「ゆつきさんね。人間って、育ってきた環境は変えられないのよ」

環境の悪い中で18年間育ってきた私は、それなりの人間にしかなれないと。

10年間婚家の風習に馴染もうと必死で努力し、時には認めてもらえるようになってきたが
いくら努力しても、18年間の環境は変えられないのだと。
それは全て無駄なのだと。

その日私は朝まで泣き続けた。
私だって選べるものなら、ちゃんとした家庭を選びたかった。
「努力」という選べるものを選ぶ選ばないは自分の責任であっても、育つ環境は誰にも責任がない。
それを否定されたこと。
をれは私の全ての人格を否定することだ。

そして離婚

離婚の原因は夫の浮気。

「好きな人ができた。結婚したいから別れてくれ」

姑は「やっぱり、育ってきた家庭があまりにも違いすぎると、上手くいかないものなのよ」と当然のように言い放った。

夫も私の母に対する嫌悪感と、その娘である私に対しての違和感が募っていたということだった。

私自身の考えと言えば
母も生まれ育ってきた環境が複雑で、本当の愛を知らなかったのだから、多少の問題があることは私は受け入れている。
でも、婚家との付き合いの中では、娘である私の立場を思って、頑張って欲しかった。

離婚の原因は母の事だけではないだろうが、婚家で間に挟まれて辛い思いをしている娘を思う気持ち。
私が欲しかったのはそれだけだ。

人間は何度でも生まれ変われる

人格全てを否定されたその日。
今でもこのことを思い出すと悔しくて涙が出る。

でも、この経験が全て負の遺産かというと、そうではないと思ってる。

私はこの日から生まれ変わった。
ゼロに戻ったのだから、そこから成長すればいい。

今思い出してみると、結婚するまでの私は人間として未熟だったし、社会的常識にも欠けていたと思う。
荒療治だったけど、それに気づかせてくれて修正させてくれた結婚期間には感謝している。

姑から教わったことを守って少しは成長できたので、その後私は社会人として通用できる人間になれた。社会に必要な人間になれた。
子ども達も優しく愛される子に育ってくれたのも、姑のおかげだと思ってる。

姑も今では私のこと大絶賛してくれているとのこと。

人生に全て無駄なことなんてない。何度でも這い上がってやる!

後は灰汁の抜けきった母をしっかり介護して、満足の行く人生を全うしてもらうことに専念しよう。

認知症にやさしいまちづくり 私達ができること地域の取り組み

認知症について

前日の記事で上げた認知症について続き
https://kaigogacha.com/genkaku/

今までも何度か取り上げたが、認知症の方が外に出てしまった時の取り組みとしては、地域の見守り(ソーシャルネットワーク)があります。

家族の対応としては、GPSの活用、機材などを紹介しました。

認知症の疾患の理解と介護の方法については、簡単に取り上げましたが、今日は更に詳しく説明します。

認知症にやさしいまち

私の住む神戸市では、認知症にやさしいまちづくりとして、様々な取り組みをしています。

神戸モデル

「認知症診断助成制度」65歳以上の市民を対象に早期受診を支援する

65歳になると認知症の検査を無料で受けることができ、認知症の疑いがあると診断された場合は、より精密な検査を受けるように専門医を紹介する制度。

「認知症事故救済制度」認知症の人が外出時などで事故に遭われた場合に救済する制度

2007年に認知症で外に出ていた男性(当時91歳)が列車にはねられて死亡した事故。「電車が遅延した」として、JRから遺族に損害賠償を請求された事例をきっかけに、神戸市が取り組みを開始した救済制度。

認知症と診断された方が事故を起こし賠償責任を負われた場合(ご家族が監督義務者として賠償責任を負われた場合も含む)に備え、神戸市が保険料を負担して賠償責任保険に加入できる制度

認知症サポーター

厚生労働省が平成17年より取り組みを開始した事業「認知症サポーターキャラバン」

認知症サポーターとは・・・認知症についての正しい知識を持ち、認知症の人と家族を温かく見守る応援者

主に市町が開催する「認知症サポーター養成講座」を受講すると、認知症サポーターとしてオレンジリング、事業所には認知症サポート店のステッカーが配布されます。

認知症サポーター養成講座は、小学校などでも開催され、小学生から大人までが認知症サポーターとして地域の認知症の人達を見守る取り組みとなっています。

オレンジリング

認知症世界の歩き方

認知症の方達は、世界がどのように見えているのか
実際に認知症の方達にインタビューして作成された書籍です。

認知症世界の歩き方には公認ファシリテーターによるカードを使ったワークショップがあります。

認知症の方達の見えている世界を知り、私達にできることを学ぶことができます。

私も先日、公認ファシリテーターである知人の薬剤師さんにお誘いいただき、薬剤師さん対象のワークショップをお手伝いさせていただきました。
また今月末にも、小学生対象のワークショップがあり、そちらもお手伝いする予定です。

高齢者を介護する家族だけではなく、その環境を取り巻く周囲の方達すべてが「自分事」として、認知症を学び、皆で支えある地域になれるように、その一助となりたい。


「ベッドに蛇がいる」警察出動させた幻覚 認知症対応の方法と反省

パーキンソン病、レビー小体型認知症と幻覚の関係

パーキンソン病+レビー小体型認知症を患う母。
幻覚はもともとあったが、その程度は軽かったり酷かったりと波がある。

幻覚は病気と大きく関連している。
まずレビー小体型認知症の症状の特徴として、幻覚・幻視、それに伴う作話・妄想などがあげられる。

また、パーキンソン病の治療薬「ドパミン系薬剤」も、副作用として幻覚・妄想などの精神症状を引き起こす可能性がある。

母の場合は、そのどちらも当てはまるので、幻覚には常に悩まされている。

「ベッドの上に蛇がいる」

幻覚が酷い時は、精神的な恐怖を伴う幻覚になる。

「ベッドの上に蛇がいる」「家に火をつけられたから飛び出した」「娘が風呂場で縛られている」

この辺りは全て自ら警察に通報
警察が出動して対応し、結果的には娘である私に電話がかかってくる。
夜中に警察から電話がかかってくるので、また何事か起こったのかと思って驚いて飛び起きる。
正直、目が冴えてしまってすぐには寝付けなくなる。

ただ、自宅にさえいてくれるなら、警察には「幻覚なので大丈夫ですよ」と説明すればそれでいい。
外に出て迷子になっているのを保護されている場合は、迎えに行かなければいけない。

関連記事
「徘徊」ではありません
パーキンソン病79歳側溝に嵌る

高齢者の介護、特に認知症の介護に関して、本人を責めてしまうのはタブー。
看護、それも在宅で訪問看護に長年携わっている私は、そんなこと分かり切っているのだが。
さすがに連日の夜中の呼び出しが続くと、思わず責め立てる言葉も出てしまい、大変後悔する日もあった。

認知症の介護

高齢者や認知症の介護について。
前述したように、本人を責めてはいけない。

認知症の症状 認知機能低下として以下のような症状がある。

  • 記憶(記憶障害)​ ・何度も同じことを話したり、聞いたりする​ …
  • 注意(注意障害)​ ・注意力や集中力が低下し、同時に2つのことがしづらくなる・会話についていけなくなる​​ …
  • 言葉(言語障害/理解力の低下)​ …
  • 日付・場所(見当識障害)​ …
  • 段取り(実行機能障害)​ …
  • 行動・心理症状の一部

何度も同じことを言ったり、いつもできていたことができなくなったりすることで、介護している家族からすれば「何でこんなこともできなくなったの?」と責めたくなってしまう。
介護は精神的ストレスを抱えることも多く、ついつい言葉を荒げてしまうこともある。

しかし。本人は全く悪気がなく、むしろ自分自身も「できなくなってきていること」に対して不安や焦燥感を感じていることが多い。

これは子育てにも通じるところがあると個人的には思っているのだが
「相手を認める、受け入れる、笑顔で接する」ことが大事だと思う。

徘徊の時にも書いたが「徘徊」はただ意味もなく徘徊するわけではない
必ずそこには理由がある。

「買い物に行きたかった」「昔住んでいた家に帰りたい」「ゴミを出しに行きたい」等

本人がやろうと思ってもできなかったことを、穏やかに対応し導いてあげることが大事なのである。

認知症の主症状は上記に上げたが、BPSD(周辺症状)と言われる症状がある。

行動・心理症状(BPSD)とは

  • ■暴言、暴力
  • ■焦燥
  • ■叫声
  • ■介護抵抗
  • ■食行動異常(過食、異食、拒食)
  • ■徘徊
  • ■失禁、不潔行為
  • ■つきまとい

これらの症状は、主症状に対して適切な対応をしなければ、より強く表れてしまうことが多い。
良く聞かれるのが「物盗られ妄想」
「お金を盗られた!」「あの人が私の財布を盗んだ」などである。

主症状に対してきつく責められることにより、それを隠そうとする、抑圧された状況が、BPSDを進行させてしまう。

経験上でも、周りの家族が笑顔で対応している認知症の方は、いつもニコニコ笑顔の認知症のおじいちゃんおばあちゃんになっていることが多い。

赤ちゃんがお母さんの笑顔を見つめて「笑う」ということを覚えるように、認知症の人にも笑顔で接すると笑顔で過ごせることができるのではないかと思う。

・・・といって。それはそうそう簡単なことではなく、時には叱責してしまうこともある(私も)
だからこそ、介護の悩みを共有し、ストレスを少しでも発散できる場所が増えることを祈っている。
認知症カフェなども多いに活用するべき。
私もいつかは認知症カフェを運営したいおと思っている。

幻覚と身体機能のバランス(母の場合)

母の主治医は、神経難病専門の先生で、パーキンソン病の薬の調整がとても絶妙である。

おかげで母も動ける状態を維持できているのだと思う。

ただし。
個々の症状によっては、どうしてもバランスが取りにくい場合もある。

母の場合は、動きが悪くなってドパミンを増やすと、幻覚が強くなってしまう。
もともと幻覚が出やすいタイプの人は、かなりの高確率で同じような幻覚が発生するらしい。
精神的に恐怖を覚えるような幻覚があったときにドパミンを減量して、日常生活に支障がない程度に幻覚は落ち着いた。

ただ、最近動きが悪くなってきたのでドパミンを増量したら、側溝に嵌った正月の事件に至ってしまった。
もう少し転倒もなく、家の中で動けるような状態にしたいけど、薬が増やせない。

今回は少し動きにくくなるけれど、危険な状態を回避できるように薬を減量。
その代わり、室内での転倒は増えている。
バランスは難しい・・・

思い出すと胸が痛くなる焼きそばUFOの話 食べ物のトラウマ

小さい頃から自分で何でもする子だった

私は小さい頃から、自分でできることが多かった(仕方なくやっていたのか?)
恐らく幼稚園にも入らない頃3~4歳だろうか、踏み台を使ってガスコンロの前に立ち、ヤカンを火にかけてお湯を沸かし、紅茶を自分で入れていた記憶がある。

食パンの場所とトースター、ピーナツバターを出している記憶があるので、恐らく自分でトーストを焼いて食べていたと思う。

小学校に入ると、食パンと紅茶の朝食を準備して弟たちを起こし、学校に行く準備をさせていた。
(その時母は寝ていたことしか思い出せない)

中学校~高校では、家事の一部を分担した

「女の子だから」「お姉ちゃんだから」という理由で、今まで通り朝食の準備と弟たちの世話に加え、夕食の後片付けが私の仕事になった。

高校になると更にそこに、お弁当作りと夕食の準備が追加された。

学校帰りに制服のままスーパーに行き食材を買いに行く。帰宅後夕食の準備をして、弟たちに食べさせて片づける。

食費は1日1000円以内だったかな?
お小遣いはもらってなかったので、やりくりして余ったらお小遣いにしていいと言われていたので、節約して残ったお金で本を買うのを楽しみにしていた。

母から料理を習ったことは無いので、メニューのレパートリーが少なく、毎日ハンバーグとカレーと明太子スパゲッティとグラタンの繰り返しだった気がする。

忘れられないエピソード

休日の朝、お腹が空いたので冷凍ピラフを自分で炒めていると、寝室で寝ていた母に怒鳴られた。

「うるさい!二日酔いで頭が痛いからガンガン響く!」
(お母さんが起きてこないから自分で作ってるのに、なんで文句言われなあかんの?)

またある時は、いつものように明太子スパゲッティを作ったら、その日は母も夕食を一緒に食べる日だった。
食卓を見た母は渋いかをしながら言った

「うわぁ、食べるもんがないなぁ」
(これでも頑張って作ったのに、そんな言い方はないだろう)

なんでもないエピソードなのだが、その何気ない一言がとても悲しくて、いまだに思い出して胸が痛くなる。

トラウマになってしまった出来事

これもとある休日の昼時。

いつものようにパチンコに行って母が帰ってこないので「お腹が空いた」という弟に焼きそばUFOを作ってあげた。
でも、作り方を間違えてしまい、とても味の薄い焼きそばになってしまったのだ。

それでも弟は「姉ちゃん、おいしいわ」と言って、美味しそうに食べていた。

これも何でもない出来事かもしれないが、今でもこの光景は脳裏に焼き付いており、切なくて涙が出てくる。

失敗してごめん。美味しくないご飯でごめん。

今私はシングルで2人の子どもを育ててきたが。
できるだけ手作りのご飯を食べさたいと思って実践してきた。
インスタントラーメンやコンビニ弁当などを食べさせることができないのだ。
このUFOの一件があり、切ない思い出がフラッシュバックするので。
お弁当系は自分が食べれないから、子ども達にも食べさせられない。

関連記事
母は「毒親」だった

逆に子ども達にとっては「たまにはコンビニ弁当食べたい」「インスタントラーメンも食べたい」となっているので、何が正解なのかは分からないが。

反面教師

幼い頃は私は、自分でできることは自分でするのが当たり前だと思っていて、何の抵抗もなかった。


中高生になると、手伝うこと自体に反発は無かったが、母親のだらしなさや不条理な言動には納得できないことがあり、「絶対お母さんみたいにはならない!」と思っていた。

高校生当時の自分のモットー三原則
「自分がされて嫌なことは人にしない」
「自分のことを棚にあげない」
「人に見返りを求めない」

振り返ってみたら、全て母に対する反発だということに気が付く。

逆に、母がいたから私は反面教師で頑張ってきたので、今の自分があるのだと感謝の気持ちすらある。

そんなトラウマを抱えつつ、介護を続けている日々。

パーキンソン病とは? 基礎知識と母の経過

病気の基礎知識

パーキンソン病とは

脳の中の運動を司る部位の神経細胞が減少し、その神経が働くときに使うドパミンという物質が減ることによって起こる病気。ドパミンは運動機能を調節する働きがあるため、ドパミンが減ることによって動きにくくなったり、手が震えたりする病気。

治療法としては、不足しているドパミンを補い血中濃度を安定させれば、主症状は落ち着くことが多い。
ただし、症状によっては1日何回も時間を決めて薬を内服しなければならない。薬を内服し忘れると、ドパミンが不足し、動けなくなってしまうこともある。

更に認知症を併発していると、薬の自己管理は非常に難しくなる。

レビー小体型認知症とは

レビー小体型認知症はアルツハイマー型認知症に次いで2番目に多い認知症で、血管性認知症とともに「三大認知症」といわれている。

レビー小体はたんぱく質のかたまりで、神経細胞を傷つけてしまう物質。
レビー小体が脳幹に多くできるとパーキンソン病、大脳皮質に多くできるとレビー小体型認知症となる。

症状は主に、認知機能の低下の他に、幻視や睡眠時の異常行動などがある。

レビー小体型認知症には病気そのものを直す薬はなく、症状を遅らせたり、精神的な症状を抑えたりする対症療法などが主な薬物療法となる。

母のパーキンソン病について

発症から診断まで

発症したのはおそらく60歳になるかならないかの頃。
その頃はまだビルの清掃などの仕事をしていたのだが、手の震えを訴え始めた。

今思えばなぜすぐに「パーキンソン病」を疑わなかったのかと、現役訪問看護師として情けない失態を冒してしまったのだが。
本人が気付かないうちに脳梗塞などを起こして、運動障害が出てしまったのだろうか?などと思っていた。

清掃の仕事の会社は「そんなに手が震えているのでは仕事は任せられない」といってクビになった。
母も本格的に通院を始め様々な検査を実施し、パーキンソン病と診断された。

薬物療法をしながらの独居生活

発症初期は手の震えもあったが、薬物療法が安定してくると主症状も落ち着き、日常生活にそれほど支障もなかった。
認知症もまだ進行しておらず、私たちが帰省するのを楽しみにしており、得意だった(大量の)料理を作ってもてなしてくれた。

新型コロナウイルスの影響で症状が進行する

新型コロナウイルスが流行し、それまでお盆と正月に帰省していたのだが、集まるのはやめた。
また、恐らくデイサービスなども自粛になったり、訪問のサービスの回数も制限したりして、社会的孤立の影響を大いに受けたことと思われる。

その頃から、時々倒れて動けなくなって、翌日発見され救急搬送。発熱し救急搬送・・・などということが増えてきた。

意味の分からないメールや電話などが来るようになったのがこの時期で、恐らくこの時期に認知症の症状が進行したのだろう。

救急搬送からの入院、そして引っ越し

最後の救急搬送から引っ越しまでは、以前の記事参照
在宅で介護を続けられる理由

当時私の勤めていた定期巡回随時対応型訪問介護看護を利用し、神戸での在宅生活へシフトした。

薬の内服は 起床時、朝食後、昼食後、15時、18時、就寝前の5回
1人暮らしの時には、恐らく内服忘れなどもあったであろう。
複数回ヘルパーが介入し服薬確認することで、ドパミンの血中濃度は安定し、生活も安定した。

ただし。
安定しすぎて、外をフラフラ彷徨うので、迷子になってしまう。
毎日がパーティの連続で、飯台いっぱいにバラ寿司作ったり、一人焼肉パーティしたり。
別の苦労は付きまとうのであった。


毒親と娘の、お金にまつわるエトセトラ 子ガチャは当りだったのか?

高校時代~看護学校

看護学校は先生の勧めで入った定時制の看護学校。
病院で働きながら学校に行く。
勤務先の病院が入学金などを立て替えてくれて、給料から天引きしてくれるシステム。
母には全く負担をかけずに行くことができた。

高校はバイト禁止だったけど、推薦決まった後に内緒でバイトして10万円貯めた。
寮があるとはいえ、初めての一人暮らし。当面の生活費&お小遣いの為に。

ところが、そのお金さえ「お金が足りないから、ちょっと貸しといて」と、一旦母の手に渡った。
(引っ越しギリギリで返してもらった)

看護学校時代

お盆やお正月に帰省するとき「あんたが帰ってくるから、食べ物買うのにお金が無いからお金送って」

え?それ、何かおかしくない??と思いつつ、事前にお金を送って帰省する。

食べきれないくらいのご馳走を作って待っている。
母の愛は分かる・・・が、出元は私だぞ?
しかも、いつも多量過ぎて余らせてしまう。食品ロスだ(何度も言うが、私のお金だ)

看護師時代

看護学校時代、おかしさに拍車がかかる。

帰省前の「お金送れ」はデフォルト。
その他、普段の生活の中でも「どうしてもお金が足りないから送って」という電話がかかってくる。

私も夜勤もしていたし、それなりの給料をもらっていたとは言え、一人暮らしの生活費や帰省の時の交通費(名古屋から九州まで)、帰省時の自分の食費(?)が毎度となると、そんなに楽々出せるものではない。

毎回ではなく、何回に1回は断るようにしていたのだが。
敵もさるもの引っ搔くもの、そう易々とは引き下がらない。

この辺りから、私と母の関係は険悪になっていた。

一番辟易したのは、夜勤入りの日のお金の無心だ。
17時まで仕事して仮眠して、その日の23時には夜勤の為に起きて仕事に行かなければならない。
ただでさえ目がさえて眠れない夜勤入り。少しでも穏やかにして、寝ることに専念したいのに。
「お金がない、送って」
今日は夜勤だからとにかく寝たいと言っても「あんたは何でそんなに冷たいんや。お母さんはこんなに困ってるのに!!」

そんな会話をしているうちにヒートアップしてきて、私はますます眠れなくなる。

母親というものは、夜勤に行くために寝ようとしている娘を、心配したりするものではないのか??

母は「自分が大変」な時は、娘のことを思いやる余裕がなくなる。そんな人。
この当時のことは、嫌な記憶としてインプットされている。

対策を講じる

突拍子もないタイミングで無心。その金額も様々で、時々高額になることがあり。
金銭面でも精神面でもかなり疲弊してきたので、対策を講じることにした。

「月々決まった額を仕送りするので、その範囲内で使って。これからは突然お金は送らない」

その場では「お金を定期的にもらえる」と喜ぶ母。
しかし、結果的にはいつもお金が足りなくなるらしく「お金送って」→「約束が違うでしょ」→「足りないんだから仕方ない」→ヒートアップ・・・の繰り返し。

田舎に帰省したときに、欲しいと言っていたソファを買ってあげようと思って準備してたお金を、全部パチンコにつぎ込んだこともあったっけ・・・。

結婚式そして離婚

私が結婚することになった。
まずは、両親顔合わせの日は、神戸まで来てもらったのだが。
持ってきたワンピースが虫喰いしていることが直前に発覚。
「そのスーツ貸して」と、私のスーツを奪おうとする母。
(ちなみに、母には数着のスーツを貸している。確認せずに、よりにもよって虫食いワンピースを持ってきてしまっただけ)

結婚式は交通費も出して、ホテルも取って招待した。
当時一緒に住んでいた弟も呼んだのだが。当然、弟の交通費と更にスーツ代も私が出した。

後日談。
私が定期的に仕送りしていたこと、他にもたくさんお金を出したこと。
本人は全く覚えていなかった。

一生懸命働いても母は生活が苦しいというのだから、私が仕送りするには当然だと思ってたし、それほど抵抗もなかった。
ただ、当時の母は「看護師して稼いでるんだから、お母さんを助けて当然でしょ」という態度(口にも出す)だったこと、感謝の気持ちがない(忘れていることが典型)ことに対して、私は言いようのない不満を感じていた。

また、そんな母親を見て、元夫の両親が思うところが多々あり。
私は常に、非常識な母の娘というフィルターを通して見られ続けた。
10年後離婚に至った時も、母という存在が大きく関与していたことは、元夫と姑の口からもはっきり聞いたし、原因の一つになったことは間違いない。

結婚していた10年間。母と婚家との確執で、間に入った私は常に苦しめられ続けた。

そして現在

パーキンソン病+レビー小体型認知症になり、幻覚も見えるようになった今。

幻覚の90%はお金にまつわるエトセトラ・・・・

「財布が無くなった」「お金を盗まれた」「財布の中にお金がない」等々

幼いころの体験から来る劣等感(これは不可抗力なので、私も理解している)、その後の人生の中でも常にお金に苦労(多くは自身の仕事や金銭管理のだらしなさが原因)が、今の幻覚に大きく影響を受けているらしい。

幻覚でまでお金に執着するなんて・・・と
姉弟集まると、母の奇行をネタにして笑い合い、愚行をつまみに酒を飲んでいつまでも盛り上がれる。
過去に憎しみあったこともある母だが、不思議と私たち姉弟はそんな母をそれほど恨んでいない。

子ガチャは絶対当りなんじゃない?お母さん。

安心介護のための見守りグッズ GPSの機能とメリットデメリット

アプリで位置情報確認

母が買い物に行くときは、必ず持って出るもの「財布」と「スマホ」
実はこのスマホを持って出るか出ないかで、迷子対策が大きな分かれ道となる

スマホに位置情報の確認できるアプリを入れておけば、迷子になっても確認できる。
行けるときは迎えに行く、行けないときは電話で指示を出したりできる。

迷子の時に電話で指示した時の笑い話。
母「ごめん。また迷子になった、どうしよう」
位置情報を確認して、すぐに帰り道を案内する。
私「そのお店の角を曲がって、まっすぐ行ったら着くから」
母「どっかから見てるの?」
とりあえず「そうそう、見えてるよ。角曲がって」と、見えてることにしておいた。

GPSグッズ

介護保険で使えるグッズはいくつかある。

靴タイプ、取り付けタイプ
https://itsumono-gps.jp/
https://www.mimamori.ne.jp/?gad_source=1&gclid=CjwKCAiA75itBhA6EiwAkho9e1Jho7VIgMAOpzincn4PnrzWMyO31w05Wpk1by46CW9N6Vpe1lvv5hoC6OsQAvD_BwE

靴のタイプの利用時に注意が必要なのは、この靴以外を履かないように全て隠さないといけないこと。
靴を履かずに出て行かれると一発アウトです。

取り付けるタイプも、そのグッズを持って行くことが確定していないと難しく、実際は活用できないことが多い。

実際母はお正月に迷子になったときは、靴も杖もシルバーカーも持たずに出ていた。
唯一スマホだけ持っていたので、位置情報確認できて助かった。
https://kaigogacha.com/sokkou_gacha/

GPSのデメリット

前述したように、GPSを使用してもそれを持っていなければ意味がない。
また、現在のGPS機能の限界で、小さいものにすると位置情報の精度がかなり下がる。
精度を高めようと思うと、その分大きく重くなる。
それをもって出るように工夫することが、更に難しくなるというのが現実。

我が家で使ってる見守りグッズ

我が家は自費で使っているのswichbot
転倒することも多いので、このカメラで確認することにしている。

このカメラから見た映像

多くはこの椅子で過ごすので、確認できる。ベッドも見えるので夜も安心。

外に出て行ってしまったときに確認できると思って、玄関の開閉センサーもつけたけど。
こちらは、ヘルパーさん出入りの度に通知が来るので、いつ誰が出たか分からず。
そのうち通知オフにしてしまった。

まだまだ課題が多い

GPSグッズにはまだまだ課題が多い。
母の場合はスマホは90%くらいの確立で持って出るのでまだ良いが、それ以外のGPSグッズだと実用性が少し低くなる。

カメラは室内しか見守ることができないので、やはり地域の住民の方や警察官の厚情に頼るしかないのが現状。

安全に安心して暮らせる地域に。

少しでも課題が解決できるよう、微力ながら何か力になりたいと思う。

「徘徊」ではありません!在宅で安心して暮らす地域の課題とは?

警察と顔見知りになる

「お母さまが保護されてます」
母が神戸に越してきてから、何度警察から電話がかかってきたことだろう。

私もスマホに表示される「110」を含む電話番号をみて、相手が話し出す前に「またですか?」と聞いたこともある。

「在宅での一人暮らしは無理です」と言われて覚悟していたことは夢だったかのように、退院後は元気に歩き回るようになった母。
毎日たくさんの来客もある(という幻覚が見えている)ので、冷蔵庫の中身が少なければ、毎日でも買い物に行って大量の料理を作る。

金銭面もさることながら、一番厄介なのが「迷子」だ。
生来方向音痴に加えて認知症も加わったため、90%の確率で迷子になる。

家に帰れなくなって警察に保護されること10回近く。
すっかり警察の常連になってしまった。

「徘徊」ではありません。施設入所が必ずしも幸せとは限りません!

警察の常連になることで、メリットとデメリットがあった。

メリットとしては、保護された時にすぐに連絡がつくこと。
「お母さま”また”保護されてますよ」となる。私の対応も手慣れてきた。

デメリットととしてただ一つ。
一度だけ警察官に食って掛かったことがある

怪我をして救急車で運ばれたこともある。
冬の寒い日に上着も着ずに外に飛び出して迷子になり、体が冷え切っていたこともある。

そんなある時、保護した警察官が言った一言
「こんなにしょっちゅう徘徊しているんだったら、施設とか考えたらいかがですか?
寒い日に迷子になったりして、冷え切って可哀想ですよ」

その一言は聞き捨てならなかった。

「徘徊という言葉は今は使いませんよ。母は徘徊しているのではなく、買い物に行きたくて迷ってるだけです。幻覚の恐怖から家を飛び出して迷子になってるだけです」

「母はまだ動けます。料理が大好きで、買い物をして料理をすることが生きがいなんです。それがリリハビリにもなって機能低下を予防するんです。施設に入ったらその全ての自由を奪うんですよ?今の母に施設入所が必ずしも幸せとは限りません。迷子になっても危険がないようにするのが地域の役割、警察の仕事の一つなんじゃないですか?」

言い過ぎたかなと思ったけど、言わずにはいれなかった。
私の剣幕に警察官は押し黙ってしまい、それ以後同じセリフを聞くことはなかった。

救急車の常連の利用者さん

当時、私が勤めてた定期巡回随時対応型訪問介護看護事業所#1で、精神科疾患の利用者さんのがいた。


不安が強く、救急車や呼んでしまったり、外に出て騒いだりすることがあった。
騒ぐと警察も出動する羽目になる。
救急車で実際に運ばれたこともあるし、対応に苦慮して立ち往生することもあった。
救急搬送できないとき、警察が出動したとき、必ず家族かそれに該当する人の対応が必要となる。
私も経験あるから分かるが、毎回毎回すぐに駆け付けることができないのが現状だ。


それでも、本人の精神面や経済的理由などにより、在宅での生活を選択。

事業所スタッフが家族の代わりに対応し、ご家族の負担を軽減させることで、在宅生活を継続することができたという経緯がある。

在宅介護の限界点、地域の課題

認知用サポーターという取り組みがある。
認知症の正しい理解と対応方法を学び、認知症に優しい地域づくりをするというのが目的。

ちなみに。外に出ると危ないからといって、外から鍵をかけるのは「虐待」に該当するので禁止されているので、自由に出入りできる状態維持は必須。

外に出てしまった時、迷子になってしまったとき。
地域の人の見守り・警察官などの協力で安全が確保できれば、在宅介護の限界点はもう少し上げることができるのでは?

明日は我が身。
私たちが高齢になる時に、自分たちの安全が確保できるような社会を作るのは、自分自身とその地域の役目ではないだろうか。

#1 定期巡回随時対応型訪問介護看護とは

訪問看護員等が、24時間体制で定期的に利用者の居宅を巡回して、入浴・排泄・食事等といった日常生活の世話を行う。緊急時はナースコールのような端末によって通報ができ、状況に応じて随時の対応ができるサービスである。
神戸市内では各区に2か所程度の事業所がある。

看護師にだけは絶対になりたくない!と言っていた私が毒親の訪問看護

「大学に行かせるお金はないよ」

母子家庭、姉弟3人の長女。
高校受験の時は「私立に行かせるお金は無い」と宣言されていた。
頑張れば合格できる可能性のある高校は「万が一落ちたら高校に行かせてもらえない!!」という恐怖のため受験を断念。
確実に合格できる高校を選択した。

大学受験のタイミングでも母は
「大学に行かせるお金はない。就職して家計を助けて欲しい」と宣言。
お金がないなら仕方ない。素直に就職するという進路を選んだ。

ところが。
ランクを落として入学した学校なので、一応ジャンルで言えば「成績優秀」
先生が進学をあきらめてくれなかった。

その時たまたま回ってきたのが、定時制の看護学校の推薦の枠だった。

先生!看護師にだけは絶対になりたくありません!

それまで、自分が看護師になるなど1度も考えたこともなく、
むしろ、絶対になりたくない職業だった。

先生!
私、自分の怪我の血を見ても気分が悪くなるんです。
夜の病棟の見回りとか、怖すぎて絶対無理なので、看護師だけは無理です。

その時の担任に放った言葉は、今でも一言一句覚えている。

夜の病棟はそんなに怖くなかった

「とりあえずここだけ受けろ。ここが合格しなかったら好きにしていい」
担任に押されて渋々受験した看護学校だったが、運よく(運悪く?)合格してしまった。

そして今に至る。

全身全霊で拒否した看護師だったけど。
始めてみたら、想像してたより夜の病棟の見回りは怖くなかった。
人の血なら、怖くなかった。

意外と行けるどころか、実際は何度もこの資格に助けられた。
離婚したときにすぐに就職することができた
子どもを育てていくのに十分な収入を得ることができた。

余談だけど。
離婚理由は元夫の浮気が本気になったパターン。
「結婚したい人がいるから別れてくれ」と言われ
「うーん、看護師の資格もあるし、何とかなるかなぁ」とぼんやり考えて承諾した瞬間を思い出す。
姑からは「何んで”貴方がいないと生きていけないんです。別れないでください”と言えなかったの?」と責められたが
「だって、生きていけると思ったんだもん」と思ったことは口に出さずにいた。

巡り巡って、毒親の訪問看護

看護師をしながら、息子と娘を育てる生活が始まった。
いつの間にか私は、訪問看護ステーションを設立まですることになり、存分に看護師の資格に助けられたことになる。

そして
60代でパーキンソン病を発症した母は、誰かの世話にならないと生きていけなくなる。
「あんたの世話にはならん!」と豪語していた母と、「看護師なんて絶対になりたくない!」と言っていた娘の私の介護生活は現在進行形なのである。

緊急訪問も夜間の訪問も可能 在宅で介護を続けられる理由

突然の救急搬送からの入院

大阪で一人暮らしをしていた母。
それは、救急隊員からの1本の電話から始まった。母を救急車で搬送するとのこと。


救急搬送は今に始まったことではなく、ここ数年で何回か繰り返している。


私自身も看護師という職業上、それほど重要視はしていなかったが、今回は事情が違った。

自宅で一人暮らしは無理かもしれない。施設を考えてください

今回の入院は、酷い便秘と尿路感染症。
ケアマネから聞いた主治医の見解はこうだった


「バルンカテーテル(膀胱留置カテーテル)を入れていたが、それを抜くと自然に尿が出なくなってしまった。このままカテーテルを入れたままの生活になります。一人暮らしは無理だと思います」

私の出番だ!

私が看護師でなかったら、または訪問看護業界にいなければ、きっとここで諦めただろう。


ところがどっこい。
当時の私は訪問看護業界在籍10年、更に言うと24時間で介護を行ってくれる定期巡回随時対応型訪問介護看護という事業所に勤務していたのだ。

バルンカテーテル留置状態だって、在宅生活は全然可能である
私の中で、それほど大きな問題にはならなかった。

また、パーキンソン病は脳内のドパミンという物質が不足して、体の動きが悪くなる病気。
治療法として、血中のドパミンを安定させるために、1日に何回もドパミンを内服する必要がある。


ドパミンを飲み忘れると血中濃度が不安定になり、動けなくなってしまう可能性がある。


認知症があると、薬の飲み忘れや過剰内服などの危険性があり、見守りが必須。
通常の訪問介護なら、複数回の服薬のために訪問することは難しいが、この事業なら複数回訪問も可能である。

定期巡回随時対応型訪問介護看護とは?

定期巡回随時対応型訪問介護看護は介護スタッフが24時間体制で介護を実施してくれる。
夜間のオムツ交換や、ナースコールのような端末を活用して緊急訪問もしてくれる。

医療の必要な人は、訪問看護のサービスを付けることができる。

在宅介護の強い味方である。

引っ越しをして在宅生活開始

今回の病状を弟たちとも相談し、引っ越しをして私の住む地域で生活させることに決まった。

当時母は大阪に住んでおり大阪の医療機関に入院中。
住むところを探すために一旦神戸市内の病院に転院し、大阪に住む弟に手伝ってもらって引っ越し。
住居の準備ができたタイミングで退院になった。

実は、母のバルンカテーテルは退院直前に抜くことができ、かなり良い状態で退院することができた。


実際医療の手はそれほど必要ではなかったけれど、引っ越しのタイミングとしては良かったのではないかと思ってる。

あまりにも元気すぎて、その後に様々な事件を起こすことになるのだが、それはまた別の機会に・・・