「母が嫌い」口してもいいのだと安堵した 青木さやか「母」読後感

母が嫌いだった。わたしの脳内は母の固定観念で支配され、わたしはわたしが嫌いだった。

青木さやか「母」

ずっと言ってはいけないと思ってた

母が嫌い。
そんな言葉を口に出すことはタブーだと思っていた。

この本を読み始めた瞬間に、冒頭に上記の一文があり、私は一気に本の世界に引き込まれるとともに、安堵の波が押し寄せた。
口に出してもいいのだと、50年近くの時を経て、ようやく解放された気分になった。

産後の手伝いで口論になる

母と私は親子としての関係を辛うじて維持しつつも、何度となくぶつかりながらの月日が経過していた。

私が第2子出産後のことだった。
母が泊まり込みで手伝いに来てくれた。
いや。無理矢理そういうセッティングにさせられたというのが正しい。

当時姑が全てを仕切っていて「産後はお母さんに1週間ほど来てもらって、その後は私が手伝うからね。その方がいいわよ」

正直なところを言うと、本当は一人で過ごす方が良かった。
気を使って仕方がない。

だが、姑の発言は絶対なので、逆らうことはできず、いう通りに母にも手伝いに来てもらうことになった。姑の配慮も有難いのだが、ある意味親切の押し付けでありる。ありがた迷惑じゃないか!と思ったけれど、今回はその話ではない。

高校卒業して家を出て以降、母とは帰省の時に2泊ほど一緒に過ごす程度。
私は休暇、母は久しぶりに帰省した娘をもてなして過ごす、いわば特別な日。
今回は、娘の家で手伝いをするという、一時的な同居生活のようなもの。
その違いは大きかった。

私は決して文句を言っているつもりはない事象に対しても、何度となくぶつかってくる。
私はその都度、怒りを抑えて穏やかに対応しようとしていたが。


「このお皿はここにしまって」
「この洗剤は泡立ちにくくて油切れが悪いから、熱めのお湯の方がいいよ」

そんな些細な声かけにたいして、突然母は怒り出してしまった。

「あんたはそうやって、私をバカにして!何にもできなくて申し訳なかったですね。私はどうせ頭が悪いから、何にもできませんよ」

と、勝手に一人で僻んで怒り出してしまったのだ。

バカにするって、そういうこと?ただの僻みじゃないか!!

ただでさえ、出産直後で睡眠不足及び疲労蓄積、母親との慣れない生活で気疲れも重なり
私もとうとう、言ってはいけない一言を言ってしまった。

「もういいよ。そんなに嫌なら帰って」

この本にも似たような場面があった。産後に来訪した母親。その母親に対して嫌悪感を抱いたというシーン。

そうだよ。
何よりも愛しい我が子を出産し、穏やかであろうその瞬間だって、憎しみの感情は生まれてくるんだ。
私は、この部分を読んだとき、まさに母に怒鳴ってしまったあの瞬間が思い出されたのだった。

自分が母親になったら、母親の気持ちが分かるようになると言うけれど、あれは嘘だ

母になったからと言って、分かるわけではない。

著者と母親のとの関係も、母になった瞬間から変わるものではなかった。
私も同じだ。

ただ
子どもが大きくなり、私自身との関係が母として子として成長していく過程で、
少しずつ変化していくものなのかもしれない。

あんなに憎んでいたものを、今更否定したくない。
そんな複雑な気持ちを抱えつつも、少しずつ変化していく。
著者の心の変化にも大いに共感することばかりだった。


認知症になっても残るもの 年齢を重ねて昇華されるもの
娘や孫たちの来訪を心待ちにして、ご馳走を作って玄関先で待ち続けた母の立ち姿
こんな時には、必ずこの母親の姿が目に浮かぶ。

決して「良い母親」ではなかったかもしれないけれど
少なくとも「子ども」を思う気持ちはあるのだということを思い知らされる。

旅立ちの瞬間は自分で選ぶ 枕元に残された煙草の吸殻

末期がんでの一人暮らし

Mさんは末期の肺癌の男性。
医療機関に入院していましたが、退院して一人暮らしを再開することになりました。

末期で一人暮らし。
介護保険のサービスを利用すれば、それは決して不可能ではありません。

前述した定期巡回随時対応型訪問介護看護があれば、24時間の訪問介護サービスは受けられるし、ナースコールもあって、緊急時に対応してくれます。

訪問看護も休日や夜間はオンコールで対応してくれますし、訪問診療の先生も増えてきました。

末期がんの方であれば、最期にどうしても入院したいと思えば、ホスピス(緩和ケア病棟)などに予約を入れておいて、タイミングを見て入院することもできます。

家に帰って煙草が吸いたい

Mさんが自宅に戻ることを決意した理由は「自由に煙草が吸いたい」でした。

病院の敷地内は禁煙のことが多く、入院生活はMさんにとって不自由でしかない場所でした。

勝手に外出したり、禁煙スペースで煙草を吸ったりして、病院側からすればMさんは問題ケースでした。

ただしそれは、自宅に帰ってしまえば、その願いは何の問題もありません。
Mさんは自宅に帰ることを決意しました。

煙草を吸って、映画を見る毎日

訪問診療、訪問看護、定期巡回随時対応型訪問介護看護サービスを利用し、Mさんはご自宅に戻られました。

自宅に戻ったMさんは、煙草を吸って映画を見るという、希望通りの生活を再開することができました。

ただそれは、そう長くは続きませんでした。

末期の肺癌患者であったMさん。
ほどなく病状が進行し、移動するだけで息苦しさが増強し、室内の移動もままならない状態になってきました。

旅立ちの瞬間は自分で選ぶ

「旅立ちの瞬間は、皆様それぞれご自分で選べらます。賑やかな旅立ちを希望する方は、家族や親類が揃うのを待ってから旅立ちます。家族に心配をかけないようにと気遣う人は、家族が寝静まった時に旅立ちます」

尊敬する訪問診療の先生が、講義で言っておられた言葉です。

思い返してみれば、私自身の看取りの体験の中で、思い当たることばかりでした。

旅立ちの瞬間は、ドラマの中の臨終の場面のように、家族がみんな傍にいて手を握って、最期の言葉を発して旅立つ・・・というようなことは絶対にありません。
本当に、その方の生き方や希望が現れるように旅立たれます。

Mさんの旅立ち

Mさんは徐々に動けなくなり、ベッドから起き上がれなくなりました。

人の旅立ちは夜中や明け方が多いですが、Mさんの場合は昼間でした。

1週間に1回の往診で、先生がMさんの往診に訪れた時です。
先生の目の前で、息を引き取られました。
誰かの目の前で息を引き取られることは、実は滅多にないことで。
家族がつきっきりで見守っているならばあり得ますが、独居の方はその確率は限りなく0に近いのです。
訪問したら息をしていなかったということが大多数でしょう。

妻や子どもと疎遠になり音信不通
身近な人間と言えば、足を悪くしてお見舞いに来ることもままならないお姉さんだけ。

恐らく、一人で気ままに過ごすことを好み、最期も一人で自宅を選んだMさんですが。
最期は誰かに看取って欲しかったので、先生が来られるタイミングを待っていたのではないでしょうか?

そして。
枕元の灰皿には、1本の煙草の吸殻
今わの際に好きだった煙草を1本吸い、見守ってくれたドクターの訪問にホッと安心し
穏やかに旅立たれたことと想像しています。


認知症高齢者のひとり暮らしの限界は? デパートに毎日通い続けるSさん

通帳がない

Sさんは、神戸の中心地の高層マンションに独り暮らし。

口癖のように「通帳がない」といつも通帳を探しています。認知症高齢者のこのような発言に対し「何言ってるの?通帳は娘さんが預かってるでしょ?」と言って、正論でぶつかってはいけません。

「後で探すの手伝いますね。まずは血圧測りましょうか?」
と話をそらせば「あらそうね。お願いします」
と、上手い具合に誘導できることがありますが、100%ではありません。
「そんなことより通帳が大事よ!」と怒られたことも多々・・・

上手い具合に話を逸らせても、さあ帰ろう!というタイミングで「あ、そうだ!通帳がないのよ!」
と、突然ふりだしに戻ることもあり、この戦いは永遠に続くかと思われるのでした

認知症の初期症状によくみられる

「通帳がない」「お財布がない」は、認知症の初期によく見られる症状です。

認知症の症状として特徴的なことの一つとして、認知症の方は過去に印象に残っていることに拘る傾向があるということです。

私の母の場合の「財布がない」「お金盗られた」は、お金に恵まれたなかったことによるお金へのこだわりでした

同じ「お金」でも、拘り方も様々なようですね

毎日買い物に行って、沢山の食料品を買ってくる

Sさんが毎日のように買ってくる食料品は、ヘルパーや訪問看護師が整理し、賞味期限が切れたものはこっそり廃棄していました

それでもまた翌日には、前日と同じ量の食料品を購入し冷蔵庫に補給。

そしてこれもまた、永遠に終わることの無い追いかけっこのようでした

認知症の症状である「買い物に行ったという記憶も忘れてしまう」ので
翌日も同じような行動を繰り返すのです

認知症高齢者の独居生活の限界点は?

認知症になったからと言って、すぐに何もできなくなるわけではありません。
介護保険でヘルパーや訪問看護などで見守りをすれば、独居生活を続けることは可能です。

Sさんはその後徐々に認知症が悪化していき、グループホームに入居することになりました。

室内で転倒していていることが増えたこと
入退院が増えたこと
キーパーソンである娘さんが遠方であったこと
以上のような理由で、ご家族の希望もあり入居が決定しました。

ただ。Sさんの場合は、比較的長い間独居生活ができた事例だと思います。
経済的にも恵まれていたこともあり、ご自分の好きなタイミングで買い物に行き、好きな物を買う。

勝手な想像かもしれませんが、Sさんはそれなりに独り暮らしを楽しめたのではないでしょうか?

認知症になる前と変わらずに、デパートで生き生きと買い物を楽しんでおられたSさんの笑顔が
今でも脳裏に浮かびます。

認知症の初期症状 物忘れと認知症の違いは?

認知症と物忘れは違う

「最近、物の名前が出てこなくなった」「昨日何食べたか忘れちゃった」
ひょっとして認知症?と思われる方もいるのではないでしょうか?

物忘れと認知症は違います。

物の名前を忘れたり、1部分の記憶が抜けてしまうのは、物忘れです。
何かのきっかけさえあれば、思い出すことができます。

認知症の場合は、行為そのものを忘れてしまう、ある一時期の記憶がそれごと抜け落ちてしまいます。

良く「私はまだ朝ごはん食べてない。うちの嫁さんがご飯を食べさせてくれない」というような
ドラマでありがちな設定がありますが。
まさにこれは「ご飯を食べたこと自体」を忘れてしまうので、認知症の典型的な症状だといえます。

財布や通帳が良くなくなるということはありませんか?
財布や通帳など、大事なものなので隠しておこうとして、その隠したこと自体を忘れてしまう。
そうすると「財布が盗られた」「通帳がなくなった」ということが多発することになります。

認知症の初期に「あれ?」と思ったら、まずこの違いを思い出して受診をするか否かを検討して欲しいです。

財布盗られた!!

我が家の母の場合。
今思い出してみれば、1度だけ「財布盗られた」と電話がかかってきたことがありました。
当時一緒に住んでなかったで状況が分からなかったこと
そして何より、ギャンブル好きの母なので、本当にお金を使い込んでしまったのだと思って、
認知症のことは疑いもしませんでした。

パーキンソン病が進行し、私が介護を始めてから
明らかに「財布盗られた」「財布が空っぽだ」などの言動が増え、まさしくこれは認知症の典型的な症状だと思い至ります。

人は認知症になったとき、今までの人生の中で印象に残っていたこと、苦労したことなどに拘るようになるとのことで。
まさしく、小さい頃から経済的に恵まれず、大人になってからもお金に苦労した母。
まさにその通り!と納得の症状です。

「財布を盗られた!あんた盗ったでしょ」と言われた時どうすればいい?

認知症が進行してくると、このような言動が増えてくることがあります。
認知症のそのような症状に対する介護方法として「怒ってはいけない」と言われてます。

認知症の方は「財布を自分で隠した」記憶がすっかり抜けているのですから、人を責めてしまうのは仕方がないことです。
本人も不安なのです。
それを「違うでしょ!」と否定してしまうと、その不安さえも否定されるので、周辺症状「暴言」「怒りっぽくなる」「鬱状態になる」が強くなる可能性があります。

できるだけ否定せず、付き合ってあげたり、話をうまく逸らしたりするのも手です。

ただ、毎日毎日同じようなことで罵られていては、怒るなという方が無理ですよね。

ストレスを溜めない範囲で対応しましょう。
怒ってしまった自分を責める必要はありません。

今は地域の認知症カフェ、福祉の集い場など、当事者は家族が交流できるスペースもあります。
ケアマネージャーがいれば、ケアマネージャーに相談するのも手です。
介護認定を受けていれば、デイサービスやショートステイを利用したりしt、介護者さんもリフレッシュするのも一つです。
担当の訪問看護さんがいたら、訪問看護師さんに相談するのも良いと思います。

介護認定を受けていなければ、地域包括支援センターに相談したり、主治医の先生に相談してみてください。

定期巡回随時対応型訪問介護看護ってどんなサービス?②

何故定期巡回随時対応型訪問介護看護が良かったの?

前回の続きです
前回はこちら 定期巡回随時対応型訪問介護看護ってどんなサービス?

実際の母の場合は、どのように対応してもらったか。
母は何故定期巡回随時対応型訪問介護看護(以下定期巡回といいます)が適していたのかというお話です。

指定訪問介護のデメリット

限度額オーバーの可能性

通常の指定訪問介護では、例えば朝のモーニングケアであれば、介護の点数として「身体介護」「生活援助」を組み合わせてプランを組む必要があります。

PAD交換、洗面所までの移動、歯磨きや洗面の介助は身体介護
食事の準備、片付けなどは生活援助
朝の場合だと、身体介護30分、生活援助20分と言ったところでしょうか。

それが少なくとも1日3回ほどあり、1か月の計算で行くとあっという間に限度額オーバーになってしまいます。

2時間ルール

指定訪問介護にはサービスとサービスの間は2時間あけなければならないルールがあります。
2時間空いていなければ、前のサービスと合算されてしまいます。
動いたのに算定できないという状態が生まれます。

転倒、排便などで急に行かなければならなくなった時に、算定できないのは事業所としては大きな問題となります。

緊急時、夜間の対応が難しい

転倒や排便での対応の話をしましたが。
そもそも、指定訪問介護では「緊急時の訪問」という区分がありません。
原則はケアマネージャーさんの立てたケアプランに基づいて訪問するので、
予め決められた時間に動くのが原則です。

また、事業所もそのようにスケジュールを決めて動いているので
急に対応しようと思っても、できないというのが現状です。

営業時間も昼間だけ。日祝はお休みの事業所も多く、24時間365日の対応が難しいです。

定期巡回のメリット

定期巡回は身体と生活の組み合わせでの単価ではないので、臨機応変に対応します。
効率よく業務をこなせば、必要以上に滞在する必要はありません。

1回当りの時間を効率化し、複数回の訪問が可能になります。

1回いくらのサービスではないので、2時間ルールもありません。
何人かのスタッフが、時間に制約されずラウンドしているので、緊急時の対応も可能です。
24時間でシフトを組んでいるので、夜間も夜間の緊急時も訪問可能です。

分かりやすく言えば、高齢福祉施設の在宅バージョンだと思ってください。

デメリットとしては。
駆けつけるといっても、同じ施設内という訳にもいきませんので、駆け付けるのに30分ほど時間がかかってしまうということがあります。

母の場合

母の場合は。
まずは薬の内服回数が多いので、それだけでも指定訪問介護では対応難しいこと。
転倒の可能性も大きく、臨時の訪問が必須になってくること。
寝る前の薬も自分では飲めないので、夜間の訪問も必要であること。
それを踏まえると、定期巡回が一番適していると判断しました。

介入当初は自分でできることが多かったので、PAD交換(もしくは確認)と内服確認だけで事足りていました。
それでも、定期巡回のサービスがあったからこそ、快適に生活できているのだと思います。

1つ欠点を言うならば
必要最低限のケアであるから、あともう少しというサービスが削られがちであるということ
食べる楽しみすら奪われる?在宅介護における生活支援の現状
食事は手をかけずに食べられるものが優先される。

ここはほんのもう少しだけ配慮が欲しいと思うのは、家族の勝手な希望なのでしょうか?
事業所側の言い分も分かるけれど、ここは家族が我慢するか、家族が負担しろよ・・・ということなのかな?


定期巡回随時対応型訪問介護看護ってどんなサービス?

定期巡回随時対応型訪問介護看護の概要

定期巡回随時対応型訪問介護看護とは?

定期巡回・随時対応型訪問介護看護は、利用者が可能な限り自宅で自立した日常生活を送ることができるよう、定期的な巡回や随時通報への対応など、利用者の心身の状況に応じて、24時間365日必要なサービスを必要なタイミングで柔軟に提供します。また、サービスの提供にあたっては、訪問介護員だけでなく看護師なども連携しているため、介護と看護の一体的なサービス提供を受けることもできます。

・・・と。
概要を聞いただけでは分かりにくいと思うので、事例を交えながら順番に説明していきます

介護保険と限度額について

まずは介護保険について
介護が必要な状態になったとき、介護認定調査を受けます。

介護認定調査を受けると、介護度が認定されます。

介護度は要支援1,2、要介護1~要介護5までに分類され、要支援1が一番軽く、要介護5が一番介護が必要とされる状態です。

介護度に応じて、介護保険サービスを利用できる点数というものが決められており、
その点数内で、必要なサービスを組み込んでいきます。

通常、介護保険サービスはケアマネージャーが作成するケアプランというものを元に
必要なサービスを組み込みます。

例えば。
私の母親が通常の介護保険サービスを利用した場合でお話しします。

79歳女性
パーキンソン病
内服が朝、昼、15時、18時、寝る前にあり
トイレには行けるときと行けない時があり、失禁があるのでPAD交換が必要。
食事の準備もできないことが多いので、準備の介助と片付けが必要。

と、このような状態であれば

朝(モーニングケア)・・・起床介助、洗顔・歯磨き等、PAD交換、朝食準備・介助、内服介助
昼・・・PAD交換、内服介助、昼食準備・介助、片付け
15時・・・PAD交換、内服介助
18時・・・PAD交換、夕食準備・介助、片付け、内服介助
22時・・・PAD交換、服薬介助、就寝介助

と最低でもこれだけのサービスが必要になります

介護には身体介護と生活支援とがあり、服薬介助、PAD交換などは身体介護
食事の準備片付けなどが生活支援に当てはまります。

それらをそれぞれの点数で組み込んだ場合、かなりの点数を利用することになります。
介護のサービスが多い人は、限度額がオーバーしてしまい、資金面や家族の介護の負担が増えることがあります。

定期巡回随時対応型訪問介護看護は包括報酬=サブスクリプションサービス

定期巡回随時対応型訪問介護看護は特徴にあるように、24時間365日のサービスです。
まず、1日を通して必要なサービスを行うのは指定訪問介護と一緒ですが
一つ一つのサービスを積み上げて計算せずに、限度額内にサービスを詰め込む感じです。

例えると、100円の物は10個購入して1000円(税別)、でも、定期巡回は11個や12時になってしまっても、まとめて1000円というイメージです。

また、定期巡回随時対応型訪問介護看護は「緊急訪問」の区分があります。
「便が出てしまったので交換して欲しい」「転倒したから助けて欲しい」などの緊急事態があった場合
必要に応じて随時の訪問を追加することができます

24時間ですので、夜間の訪問が可能なことも特徴の一つです。

通常の指定訪問介護では、「何曜日の何時から1時間」と決められているサービス以外の時間は
訪問はできないのが原則です。
また、夜間に営業している事業所も少ないので、夜間のサービスが必要な利用者は、24時間のサービスに対応している定期巡回随時対応型訪問介護看護適しています。
(夜間対応型訪問介護というサービスは一部の事業所で対応あり)

実際のサービス内容についてはまた後日説明します。


認知症になっても残るもの 年齢を重ねて昇華されるもの

お母さんが死んでも絶対泣かない

母のことが嫌いだというと、皆に責められそうな気がして言えなかった。
友達のお母さんはみんな優しくて、子ども思い。
我が家だけどうしてこんな風なの?

何度も傷ついて、泣いて、怒鳴り合って。
当時の私は「お母さんが死んでも絶対泣かないと思う」本気でそう思っていた。

そんな気持ちが少しずつ薄れてきたのはいつのことだろう??

昇華されていく辛い思い出

結婚して子どもが小さい頃は、弟たちともそうそう会うこともなく。
会っても食事程度で帰るだけの短時間だった。

それは母も同様で、子どもを連れて会いに行っても、日帰りで帰る。
話の内容も子どもの話題が中心だった。

結婚期間中は、婚家との確執の間に入って、一番母のことを憎んだ時期だったかもしれない。

結婚10年目で離婚し、婚家に遠慮することがなくなったので、お盆と正月は実家に帰って1泊するようになり、弟たちと共にお酒を飲みながら話をするようになった。
小さい頃は壮絶な兄弟げんかをしていた弟たちも、当時の記憶はすっかり昇華されており、仲良く当時のことを語りあっている。
私達姉弟も、過去の母親の愚行奇行(?)を酒の肴にして笑い合った。

私達は、当時の辛い記憶を振り返って語り合い笑い合いうことで、自然とヒーリングになっていたのかもしれないと、今になって思う。

認知症になって残るもの

母は料理は得意だった。
大皿に盛り上げた唐揚げ、飯台一杯のちらし寿司、ポテトサラダ、茶わん蒸し。

結局いつも食べきれずに残してしまうので「もったいないからやめて!」と注意しても、次もまた同じように料理を作る。

認知症になって神戸に来てからも、一人暮らしなのに食べきれないほどの料理を作る。
食費がいくらあっても足りないくらい。

幼い頃に食べ物が食べられずひもじい思いをした母が、子ども達孫たちに沢山食べさせたいという思いだったのだろうと、今になって納得する。

認知症になって残るもの。
それは、一番大切な気持ちなのかもしれない

いつも思い出す光景

母が死んでも泣かないと思ってたけれど、今は気持ちは変わってきている。
それは私も年齢を重ねて涙もろくなったせいか?
それとも、老いてゆく母の姿が、間もなく訪れる別れを予感させるからなのか。

今、一人暮らしの部屋でも、時々子どもや孫を待って、料理を作ろうとしていることがある。
その姿を見る度に、必ず思い出す光景がある。

それは、母がまだ大阪で一人暮らしをしていた時。
盆や正月に私が子供を連れて帰省する時、必ずマンションの玄関に立って待っている姿だ。

到着する時間を教えていないのに、いつもちょうどよいタイミングで待っている。
家にはテーブルいっぱいの料理を準備して。

いったい何時間まっていたのだろう?
私達が来るのを楽しみにして、ずっと立って待っていたのかもしれない。


ご馳走を作って娘息子、孫たちを首を長くして待つ。
そんな母の姿が、何故かいつも必ず思い浮かぶ。

こんな姿になって・・・。変わり果てた姿で戻って来た愛車

母は夜逃げした

「今、大阪やねんけど」
ある日突然、母から電話がありこう告げられた。
え?どういうこと?
意味が分からずに私は呆然とした。

母は弟の住む大阪に来ていた。
家財道具を置いたまま、夜逃げをしてきたのだ。

夜逃げの話を聞いても、やはり意味が分からずに呆然としたままだった。

家賃が払えない

母は、家賃が払えず、家主からの請求に耐え切れず、家を出てきしまったとのこと。
私達も仕送りはしていた、弟もある程度助けていたと思う。
なのに、何故?

田舎の町なので、仕事がないというのが理由とのことだ。
今まで母は造船所などで肉体労働をして稼いでいた。
そのまま続けるには加齢に伴い体力もついていかず。
かといって、それに見合うくらいの仕事も見つからず。
思うように収入もなくなり、生活が立ち行かなくなったらしい。

当時私は結婚していたが、厳しい姑に何と言って報告すればいいのか苦しんだ記憶がある。
≪参照≫全ての人格を否定され、そこから生まれ変わった 離婚の1番の原因
今すぐ帰って!と言い放った気がする。

結局その後母は、大阪でビルの清掃などをしながら、弟と生活を始める。

見捨てられたモノたち

私が高校を卒業して家を出るとき。
賞をもらった絵や文集、思い出の詰まったモノたちを最小限に厳選して、一つの段ボールに詰めておいた。
「これだけは絶対捨てないで」
そう記しておいた段ボールは、その1年後の引っ越しの時には捨てられていた。

母が私の結婚式で神戸に来た時、結婚前に乗っていた私の車を譲ることになっていた。
田舎は公共交通機関が整っておらず、仕事に行くのにも車が必要になることが多い。
車は無料で譲るけど、名義変更は自分でしてねとお願いした。

「仕事で使うから、ちょっと貸して」と、スーツも何着か持って帰った。

夜逃げと言うからには当然だけど、その時車もスーツも全て放置してきた。

夜逃げの後処理

いくら逃げてきたとはいえ、残してきた荷物をそのままにしておいていい訳がない。
結局、後の作業は私がすることになった。

住宅の家主に連絡して、全てを処分してもらった(もちろん有料で)
選別することもできないので、全て廃棄してもらった。仕方がない。

ところで、肝心の車はどうなった??

車の事を聞くと、家の裏の空き地に放置したままだと言うではないか。
更に、結局名義変更もしておらず、私の名義のままだったのだ。
(ちなみに、名義変更代のお金は2回ほど渡してるが、全て使い込んだようだ・・・)

つまり。
私名義の車が、田舎の空き地に不法投棄されているという、最悪の状況なのである。

こんな姿になって・・・

車もまた、家主さんにお願いして処分してもらった。
(繰り返すが、お金はこちらで出した)
名義は私なので、名義変更だけは私がしなければならない。

数日後のある日、私宛てに家主さんからナンバープレートが送られてきた。

私の愛車は当時の雄姿は見る影もなく、ナンバープレートだけになってしまったのだ。

こんな姿になってしまって・・・・・・・・
薄っぺらい封筒に入ったナンバープレートを抱え、私は運輸局へ足を運んだのだった・・・。

食べる楽しみすら奪われる?在宅介護における生活支援の現状

宅配弁当導入しませんか?

神戸での在宅介護を開始したタイミングで、定期巡回随時対応型訪問介護看護を利用した。
≪参照≫緊急訪問も夜間の訪問も可能 在宅で介護を続けられる理由

介入当初は、一人で買い物にも行けたし、食べきれないほどの料理を作って毎日がパーティだった。
薬の飲み忘れと失禁はあるので、決められた時間の内服介助とPADの交換が、主な支援内容だった。

徐々に食事が作れなくなってきたので、コープの宅配で温めれば食べられる食品などの購入と、私が作った作り置きおかずを定期的に持って行っていた。

ある時担当者会議で受けた提案「宅配弁当を導入しませんか?」

冷凍の物ばかりだと栄養が偏る、メニューに同じものが続くから・・・という理由だった。

家族としての心の声

宅配弁当は1食だいたい500円前後。宅配の人件費もいるので、1食当りが割高になる。

そもそも。私が持って行った総菜や冷凍食品で本人は十分美味しいと言っているし。
メニュー構成くらいその中からヘルパーさんが考えてくれたら、問題解決するのでは?
私はそもそもお弁当嫌いなんだけど。
・・・と思ったけど、言えなかった。

正直、経済的にも厳しいけれど、夕食だけお弁当を導入することになった。

在宅介護業界における生活支援の変遷

介護保険は、要支援・要介護者の生活及び身体的介護を支援するサービスとして2000年に制定された。
医療機関で入院していることが多かった高齢者が在宅での生活にシフトされたこと、要介護者の増加に伴い徐々に「生活支援」から「身体介護」メインにシフトしていった。

当初は生活支援が多かったので、利用者さんも介護スタッフ=掃除のおばさん、料理を作ってくれるおばさんと認識している所があり、家政婦との混同されていることが多かった。

医療機関は90日を超えると診療報酬が低くなってしまうので、早々に家に帰したい。
そうして、まだまだ医療度や身体介護率が高い高齢者が在宅に戻ってくることになった。

必然的に、在宅での身体介護を占める割合が増え、生活支援が縮小せざるを得ない状況に陥った。

社会情勢、診療報酬、制度の変更などを経て、在宅生活における生活支援は最小限に縮小されているのが現状。

調理や掃除などは、できる範囲で本人や家族が実施。シルバー人材や民間サービスなどでの保険外サービスでの介入が主流になってきた。

母の生活支援の現状

以前は生活支援として行っていた「調理」は、今ではほとんど行われておらず。
母も、介護スタッフさんによる「調理」は味噌汁作り程度だろうか。

私はできるだけ、電子レンジで温めれば食べられるもの、インスタントの味噌汁、私が作ったお惣菜など、介護さんの手を煩わせないように気を付けていた。

ところが。先日の担当者会議で
「お惣菜も余ってきて食べきれないことが多いので、お弁当と冷凍食品メインにしてください」と提案された。

なんだかなぁ。
家族の負担を最小にすることはありがたいが、母が私が作ったヒジキの煮物やおからなどを「美味しい」と言って喜んでくれているその楽しみさえ、奪わなければいけないのか??
・・・と、心の片隅に残る違和感。

実情を言うと。
介護スタッフさんは外国人が多く、恐らくメニューの構成ができないのが原因の1つだと思う。
朝食が味噌汁+パンだったり、ご飯の上に麻婆豆腐とスパニッシュオムレツ乗っけたりするしね。

母から反面教師で教えてもらった「食べ物のこだわり」
それに伴いいがみ合ったこと、嫌な思い出はたくさんあるけれど。
母に今残されてる楽しみは「美味しいものを食べること」

私に今できることは、美味しいものを作ること。
もはや、それすら実現できないのか・・・?

介護が楽になって良いではないか?と思えばそうかもしれないけど。
複雑な気持ちで朝を迎えている



全ての人格を否定され、そこから生まれ変わった 離婚の1番の原因

いわゆる嫁姑問題?

これまでも話してきたように、私の母は良く言えば自由人、悪く言えば自己中

ただし、全ての人から嫌われるかというとそうでもなく、田舎の親戚付き合いの中では、まぁ「そこそこ」という感じだったと思う。
普通に愛嬌はいいので(=悪いことしても全く悪いと気が付いてない)、表面的には悪い人ではない。

本人の育ってきた環境が母の人格形成に多大な影響を与えたのであって、母には責任がない(自分がどう生きるかということは別問題として)

・・・と、含むことは多いのだけど

言うならば、娘息子である私達姉弟は、大なり小なりの被害を被っているので、諸手を挙げて全肯定はできない・・・というのが正直な所。

自立して社会に出て、非常識を知る

実家で手伝いをしながら学校に通っていた中高生時代までは、母親のことはそれほどおかしい(?)とは思わなかった。

高校卒業して名古屋の看護学校に入学。実家を出て一人で生活し始めた頃から、周りの友人の両親との微妙な違和感を感じ始めた。

友人の実家からは、お菓子や食料を送って来る。何ならお小遣いも送ってくる。
方や我が家の実家からは、そういったものは一切ない。
むしろ「お金を送ってくれ」という電話は、再三かかってくる。

それでも、実家に帰る時は事前にお金を送り、仕送りもしていた。
お母さん大変だから仕方ないと思っていた。
毒親と娘の、お金にまつわるエトセトラ

そんなある日、盛大な違和感を感じる出来事があった。

「○○さんは、娘さんから”これで旅行でも行って”ってお金送ってもらったんだって。いいねぇ。あんたはそんなの一切送ってくれないやん」

私は、高校卒業から母に1円も出してもらわずに看護学校に進学した。
定時制の看護学校通いながら、看護助手として働いて稼いだお金は仕送りした。
帰省の度にお金は送っている。
「それだけで十分だ」と何で思わないの?感謝する気持ちはないの?

多分これは私が20歳になったくらいの出来事。
私はこの日泣いた。
今まで母のためにと思っていたこと全てが、母にとっては「当たり前」であり、更に「もっと」と要求するんだ。
私は何のために頑張ってきたんだろう??
私も自立して働き始め、成人となったこの時期。母への違和感が強めていく。

母に対する嫌悪感と結婚

看護師として働き始めた5年後、結婚をすることになった。
その婚家の姑と母は、当然上手くいく訳がなかった。

何とか上手く付き合おうとしてくれる夫とその両親。
自身の非常識さに気が付かない母。
挙句の果てに、母までもが姑を毛嫌いするようになり、両家は全く上手く行かなくなってしまった。

そもそも姑は、最初から母の事は毛嫌いしていたので、こうなることは必然だったのかもしれないけど。

そして、その娘である私は「あのお母さんの娘だから」というレッテルを貼られ、フィルターを通した目で見られる。

結婚前は礼儀作法を徹底的に教え込まれた「ゆつきさんは知らないだろうから教えとくわね」と。
結婚後生まれた長男が人見知りすれば「育て方が悪いから」

私は非常識な母に育てられ、常識をしらない人間なんだと落ち込んだ。
それでも、自分を変えて成長して、子ども達にちゃんと伝えたい。
私と同じ思いはさせたくないという一心で、姑に仕え、言われたことは忠実に守った。

事件勃発

私が結婚後に母も大阪に出てきて弟と暮らしていた。

お正月に私が息子を連れて元旦那と一緒に家に挨拶に行こうとした時のこと。

当時狭いワンルームに住んでいた母は「絶対に家には来て欲しくない」と言い張った。
姑は「普通は家に挨拶にいくでしょう。お金がないのに外で会うのもおかしい」と真っ向から意見が対立した。

母は「こんな狭い所恥ずかしい」「汚いし、見られたくない」と応じない。
狭いのは知ってるし、汚いのは片づけて清潔にすればいい話だと言っても絶対に応じない。
姑も断固「うん」と言わない。
間に立った私としては、姑から責められる一方。
母には嫁である娘の立場を考えて、嫌なことでも我慢して欲しかった。
そう言っても、受け入れてもらえなかった。

こうして、事あるごとに母は姑と対立。私は間に入って苦しみ、それは母への嫌悪感を強めることになってしまった。

とうとう夫も母を憎むようになっていた。

人格を否定され、私はゼロからスタートした

そんな時間が何度も重なり、関係修復は困難になっていた。

それでも私は多少なりとも成長し、姑には「成長したね」と認めてもらえることも多くなっていた。

しかし、そんな私の奢りを地の底に陥れる一言

「ゆつきさんね。人間って、育ってきた環境は変えられないのよ」

環境の悪い中で18年間育ってきた私は、それなりの人間にしかなれないと。

10年間婚家の風習に馴染もうと必死で努力し、時には認めてもらえるようになってきたが
いくら努力しても、18年間の環境は変えられないのだと。
それは全て無駄なのだと。

その日私は朝まで泣き続けた。
私だって選べるものなら、ちゃんとした家庭を選びたかった。
「努力」という選べるものを選ぶ選ばないは自分の責任であっても、育つ環境は誰にも責任がない。
それを否定されたこと。
をれは私の全ての人格を否定することだ。

そして離婚

離婚の原因は夫の浮気。

「好きな人ができた。結婚したいから別れてくれ」

姑は「やっぱり、育ってきた家庭があまりにも違いすぎると、上手くいかないものなのよ」と当然のように言い放った。

夫も私の母に対する嫌悪感と、その娘である私に対しての違和感が募っていたということだった。

私自身の考えと言えば
母も生まれ育ってきた環境が複雑で、本当の愛を知らなかったのだから、多少の問題があることは私は受け入れている。
でも、婚家との付き合いの中では、娘である私の立場を思って、頑張って欲しかった。

離婚の原因は母の事だけではないだろうが、婚家で間に挟まれて辛い思いをしている娘を思う気持ち。
私が欲しかったのはそれだけだ。

人間は何度でも生まれ変われる

人格全てを否定されたその日。
今でもこのことを思い出すと悔しくて涙が出る。

でも、この経験が全て負の遺産かというと、そうではないと思ってる。

私はこの日から生まれ変わった。
ゼロに戻ったのだから、そこから成長すればいい。

今思い出してみると、結婚するまでの私は人間として未熟だったし、社会的常識にも欠けていたと思う。
荒療治だったけど、それに気づかせてくれて修正させてくれた結婚期間には感謝している。

姑から教わったことを守って少しは成長できたので、その後私は社会人として通用できる人間になれた。社会に必要な人間になれた。
子ども達も優しく愛される子に育ってくれたのも、姑のおかげだと思ってる。

姑も今では私のこと大絶賛してくれているとのこと。

人生に全て無駄なことなんてない。何度でも這い上がってやる!

後は灰汁の抜けきった母をしっかり介護して、満足の行く人生を全うしてもらうことに専念しよう。