毒親

「母が嫌い」口してもいいのだと安堵した 青木さやか「母」読後感

母が嫌いだった。わたしの脳内は母の固定観念で支配され、わたしはわたしが嫌いだった。

青木さやか「母」

ずっと言ってはいけないと思ってた

母が嫌い。
そんな言葉を口に出すことはタブーだと思っていた。

この本を読み始めた瞬間に、冒頭に上記の一文があり、私は一気に本の世界に引き込まれるとともに、安堵の波が押し寄せた。
口に出してもいいのだと、50年近くの時を経て、ようやく解放された気分になった。

産後の手伝いで口論になる

母と私は親子としての関係を辛うじて維持しつつも、何度となくぶつかりながらの月日が経過していた。

私が第2子出産後のことだった。
母が泊まり込みで手伝いに来てくれた。
いや。無理矢理そういうセッティングにさせられたというのが正しい。

当時姑が全てを仕切っていて「産後はお母さんに1週間ほど来てもらって、その後は私が手伝うからね。その方がいいわよ」

正直なところを言うと、本当は一人で過ごす方が良かった。
気を使って仕方がない。

だが、姑の発言は絶対なので、逆らうことはできず、いう通りに母にも手伝いに来てもらうことになった。姑の配慮も有難いのだが、ある意味親切の押し付けでありる。ありがた迷惑じゃないか!と思ったけれど、今回はその話ではない。

高校卒業して家を出て以降、母とは帰省の時に2泊ほど一緒に過ごす程度。
私は休暇、母は久しぶりに帰省した娘をもてなして過ごす、いわば特別な日。
今回は、娘の家で手伝いをするという、一時的な同居生活のようなもの。
その違いは大きかった。

私は決して文句を言っているつもりはない事象に対しても、何度となくぶつかってくる。
私はその都度、怒りを抑えて穏やかに対応しようとしていたが。


「このお皿はここにしまって」
「この洗剤は泡立ちにくくて油切れが悪いから、熱めのお湯の方がいいよ」

そんな些細な声かけにたいして、突然母は怒り出してしまった。

「あんたはそうやって、私をバカにして!何にもできなくて申し訳なかったですね。私はどうせ頭が悪いから、何にもできませんよ」

と、勝手に一人で僻んで怒り出してしまったのだ。

バカにするって、そういうこと?ただの僻みじゃないか!!

ただでさえ、出産直後で睡眠不足及び疲労蓄積、母親との慣れない生活で気疲れも重なり
私もとうとう、言ってはいけない一言を言ってしまった。

「もういいよ。そんなに嫌なら帰って」

この本にも似たような場面があった。産後に来訪した母親。その母親に対して嫌悪感を抱いたというシーン。

そうだよ。
何よりも愛しい我が子を出産し、穏やかであろうその瞬間だって、憎しみの感情は生まれてくるんだ。
私は、この部分を読んだとき、まさに母に怒鳴ってしまったあの瞬間が思い出されたのだった。

自分が母親になったら、母親の気持ちが分かるようになると言うけれど、あれは嘘だ

母になったからと言って、分かるわけではない。

著者と母親のとの関係も、母になった瞬間から変わるものではなかった。
私も同じだ。

ただ
子どもが大きくなり、私自身との関係が母として子として成長していく過程で、
少しずつ変化していくものなのかもしれない。

あんなに憎んでいたものを、今更否定したくない。
そんな複雑な気持ちを抱えつつも、少しずつ変化していく。
著者の心の変化にも大いに共感することばかりだった。


認知症になっても残るもの 年齢を重ねて昇華されるもの
娘や孫たちの来訪を心待ちにして、ご馳走を作って玄関先で待ち続けた母の立ち姿
こんな時には、必ずこの母親の姿が目に浮かぶ。

決して「良い母親」ではなかったかもしれないけれど
少なくとも「子ども」を思う気持ちはあるのだということを思い知らされる。

認知症になっても残るもの 年齢を重ねて昇華されるもの

お母さんが死んでも絶対泣かない

母のことが嫌いだというと、皆に責められそうな気がして言えなかった。
友達のお母さんはみんな優しくて、子ども思い。
我が家だけどうしてこんな風なの?

何度も傷ついて、泣いて、怒鳴り合って。
当時の私は「お母さんが死んでも絶対泣かないと思う」本気でそう思っていた。

そんな気持ちが少しずつ薄れてきたのはいつのことだろう??

昇華されていく辛い思い出

結婚して子どもが小さい頃は、弟たちともそうそう会うこともなく。
会っても食事程度で帰るだけの短時間だった。

それは母も同様で、子どもを連れて会いに行っても、日帰りで帰る。
話の内容も子どもの話題が中心だった。

結婚期間中は、婚家との確執の間に入って、一番母のことを憎んだ時期だったかもしれない。

結婚10年目で離婚し、婚家に遠慮することがなくなったので、お盆と正月は実家に帰って1泊するようになり、弟たちと共にお酒を飲みながら話をするようになった。
小さい頃は壮絶な兄弟げんかをしていた弟たちも、当時の記憶はすっかり昇華されており、仲良く当時のことを語りあっている。
私達姉弟も、過去の母親の愚行奇行(?)を酒の肴にして笑い合った。

私達は、当時の辛い記憶を振り返って語り合い笑い合いうことで、自然とヒーリングになっていたのかもしれないと、今になって思う。

認知症になって残るもの

母は料理は得意だった。
大皿に盛り上げた唐揚げ、飯台一杯のちらし寿司、ポテトサラダ、茶わん蒸し。

結局いつも食べきれずに残してしまうので「もったいないからやめて!」と注意しても、次もまた同じように料理を作る。

認知症になって神戸に来てからも、一人暮らしなのに食べきれないほどの料理を作る。
食費がいくらあっても足りないくらい。

幼い頃に食べ物が食べられずひもじい思いをした母が、子ども達孫たちに沢山食べさせたいという思いだったのだろうと、今になって納得する。

認知症になって残るもの。
それは、一番大切な気持ちなのかもしれない

いつも思い出す光景

母が死んでも泣かないと思ってたけれど、今は気持ちは変わってきている。
それは私も年齢を重ねて涙もろくなったせいか?
それとも、老いてゆく母の姿が、間もなく訪れる別れを予感させるからなのか。

今、一人暮らしの部屋でも、時々子どもや孫を待って、料理を作ろうとしていることがある。
その姿を見る度に、必ず思い出す光景がある。

それは、母がまだ大阪で一人暮らしをしていた時。
盆や正月に私が子供を連れて帰省する時、必ずマンションの玄関に立って待っている姿だ。

到着する時間を教えていないのに、いつもちょうどよいタイミングで待っている。
家にはテーブルいっぱいの料理を準備して。

いったい何時間まっていたのだろう?
私達が来るのを楽しみにして、ずっと立って待っていたのかもしれない。


ご馳走を作って娘息子、孫たちを首を長くして待つ。
そんな母の姿が、何故かいつも必ず思い浮かぶ。

こんな姿になって・・・。変わり果てた姿で戻って来た愛車

母は夜逃げした

「今、大阪やねんけど」
ある日突然、母から電話がありこう告げられた。
え?どういうこと?
意味が分からずに私は呆然とした。

母は弟の住む大阪に来ていた。
家財道具を置いたまま、夜逃げをしてきたのだ。

夜逃げの話を聞いても、やはり意味が分からずに呆然としたままだった。

家賃が払えない

母は、家賃が払えず、家主からの請求に耐え切れず、家を出てきしまったとのこと。
私達も仕送りはしていた、弟もある程度助けていたと思う。
なのに、何故?

田舎の町なので、仕事がないというのが理由とのことだ。
今まで母は造船所などで肉体労働をして稼いでいた。
そのまま続けるには加齢に伴い体力もついていかず。
かといって、それに見合うくらいの仕事も見つからず。
思うように収入もなくなり、生活が立ち行かなくなったらしい。

当時私は結婚していたが、厳しい姑に何と言って報告すればいいのか苦しんだ記憶がある。
≪参照≫全ての人格を否定され、そこから生まれ変わった 離婚の1番の原因
今すぐ帰って!と言い放った気がする。

結局その後母は、大阪でビルの清掃などをしながら、弟と生活を始める。

見捨てられたモノたち

私が高校を卒業して家を出るとき。
賞をもらった絵や文集、思い出の詰まったモノたちを最小限に厳選して、一つの段ボールに詰めておいた。
「これだけは絶対捨てないで」
そう記しておいた段ボールは、その1年後の引っ越しの時には捨てられていた。

母が私の結婚式で神戸に来た時、結婚前に乗っていた私の車を譲ることになっていた。
田舎は公共交通機関が整っておらず、仕事に行くのにも車が必要になることが多い。
車は無料で譲るけど、名義変更は自分でしてねとお願いした。

「仕事で使うから、ちょっと貸して」と、スーツも何着か持って帰った。

夜逃げと言うからには当然だけど、その時車もスーツも全て放置してきた。

夜逃げの後処理

いくら逃げてきたとはいえ、残してきた荷物をそのままにしておいていい訳がない。
結局、後の作業は私がすることになった。

住宅の家主に連絡して、全てを処分してもらった(もちろん有料で)
選別することもできないので、全て廃棄してもらった。仕方がない。

ところで、肝心の車はどうなった??

車の事を聞くと、家の裏の空き地に放置したままだと言うではないか。
更に、結局名義変更もしておらず、私の名義のままだったのだ。
(ちなみに、名義変更代のお金は2回ほど渡してるが、全て使い込んだようだ・・・)

つまり。
私名義の車が、田舎の空き地に不法投棄されているという、最悪の状況なのである。

こんな姿になって・・・

車もまた、家主さんにお願いして処分してもらった。
(繰り返すが、お金はこちらで出した)
名義は私なので、名義変更だけは私がしなければならない。

数日後のある日、私宛てに家主さんからナンバープレートが送られてきた。

私の愛車は当時の雄姿は見る影もなく、ナンバープレートだけになってしまったのだ。

こんな姿になってしまって・・・・・・・・
薄っぺらい封筒に入ったナンバープレートを抱え、私は運輸局へ足を運んだのだった・・・。

全ての人格を否定され、そこから生まれ変わった 離婚の1番の原因

いわゆる嫁姑問題?

これまでも話してきたように、私の母は良く言えば自由人、悪く言えば自己中

ただし、全ての人から嫌われるかというとそうでもなく、田舎の親戚付き合いの中では、まぁ「そこそこ」という感じだったと思う。
普通に愛嬌はいいので(=悪いことしても全く悪いと気が付いてない)、表面的には悪い人ではない。

本人の育ってきた環境が母の人格形成に多大な影響を与えたのであって、母には責任がない(自分がどう生きるかということは別問題として)

・・・と、含むことは多いのだけど

言うならば、娘息子である私達姉弟は、大なり小なりの被害を被っているので、諸手を挙げて全肯定はできない・・・というのが正直な所。

自立して社会に出て、非常識を知る

実家で手伝いをしながら学校に通っていた中高生時代までは、母親のことはそれほどおかしい(?)とは思わなかった。

高校卒業して名古屋の看護学校に入学。実家を出て一人で生活し始めた頃から、周りの友人の両親との微妙な違和感を感じ始めた。

友人の実家からは、お菓子や食料を送って来る。何ならお小遣いも送ってくる。
方や我が家の実家からは、そういったものは一切ない。
むしろ「お金を送ってくれ」という電話は、再三かかってくる。

それでも、実家に帰る時は事前にお金を送り、仕送りもしていた。
お母さん大変だから仕方ないと思っていた。
毒親と娘の、お金にまつわるエトセトラ

そんなある日、盛大な違和感を感じる出来事があった。

「○○さんは、娘さんから”これで旅行でも行って”ってお金送ってもらったんだって。いいねぇ。あんたはそんなの一切送ってくれないやん」

私は、高校卒業から母に1円も出してもらわずに看護学校に進学した。
定時制の看護学校通いながら、看護助手として働いて稼いだお金は仕送りした。
帰省の度にお金は送っている。
「それだけで十分だ」と何で思わないの?感謝する気持ちはないの?

多分これは私が20歳になったくらいの出来事。
私はこの日泣いた。
今まで母のためにと思っていたこと全てが、母にとっては「当たり前」であり、更に「もっと」と要求するんだ。
私は何のために頑張ってきたんだろう??
私も自立して働き始め、成人となったこの時期。母への違和感が強めていく。

母に対する嫌悪感と結婚

看護師として働き始めた5年後、結婚をすることになった。
その婚家の姑と母は、当然上手くいく訳がなかった。

何とか上手く付き合おうとしてくれる夫とその両親。
自身の非常識さに気が付かない母。
挙句の果てに、母までもが姑を毛嫌いするようになり、両家は全く上手く行かなくなってしまった。

そもそも姑は、最初から母の事は毛嫌いしていたので、こうなることは必然だったのかもしれないけど。

そして、その娘である私は「あのお母さんの娘だから」というレッテルを貼られ、フィルターを通した目で見られる。

結婚前は礼儀作法を徹底的に教え込まれた「ゆつきさんは知らないだろうから教えとくわね」と。
結婚後生まれた長男が人見知りすれば「育て方が悪いから」

私は非常識な母に育てられ、常識をしらない人間なんだと落ち込んだ。
それでも、自分を変えて成長して、子ども達にちゃんと伝えたい。
私と同じ思いはさせたくないという一心で、姑に仕え、言われたことは忠実に守った。

事件勃発

私が結婚後に母も大阪に出てきて弟と暮らしていた。

お正月に私が息子を連れて元旦那と一緒に家に挨拶に行こうとした時のこと。

当時狭いワンルームに住んでいた母は「絶対に家には来て欲しくない」と言い張った。
姑は「普通は家に挨拶にいくでしょう。お金がないのに外で会うのもおかしい」と真っ向から意見が対立した。

母は「こんな狭い所恥ずかしい」「汚いし、見られたくない」と応じない。
狭いのは知ってるし、汚いのは片づけて清潔にすればいい話だと言っても絶対に応じない。
姑も断固「うん」と言わない。
間に立った私としては、姑から責められる一方。
母には嫁である娘の立場を考えて、嫌なことでも我慢して欲しかった。
そう言っても、受け入れてもらえなかった。

こうして、事あるごとに母は姑と対立。私は間に入って苦しみ、それは母への嫌悪感を強めることになってしまった。

とうとう夫も母を憎むようになっていた。

人格を否定され、私はゼロからスタートした

そんな時間が何度も重なり、関係修復は困難になっていた。

それでも私は多少なりとも成長し、姑には「成長したね」と認めてもらえることも多くなっていた。

しかし、そんな私の奢りを地の底に陥れる一言

「ゆつきさんね。人間って、育ってきた環境は変えられないのよ」

環境の悪い中で18年間育ってきた私は、それなりの人間にしかなれないと。

10年間婚家の風習に馴染もうと必死で努力し、時には認めてもらえるようになってきたが
いくら努力しても、18年間の環境は変えられないのだと。
それは全て無駄なのだと。

その日私は朝まで泣き続けた。
私だって選べるものなら、ちゃんとした家庭を選びたかった。
「努力」という選べるものを選ぶ選ばないは自分の責任であっても、育つ環境は誰にも責任がない。
それを否定されたこと。
をれは私の全ての人格を否定することだ。

そして離婚

離婚の原因は夫の浮気。

「好きな人ができた。結婚したいから別れてくれ」

姑は「やっぱり、育ってきた家庭があまりにも違いすぎると、上手くいかないものなのよ」と当然のように言い放った。

夫も私の母に対する嫌悪感と、その娘である私に対しての違和感が募っていたということだった。

私自身の考えと言えば
母も生まれ育ってきた環境が複雑で、本当の愛を知らなかったのだから、多少の問題があることは私は受け入れている。
でも、婚家との付き合いの中では、娘である私の立場を思って、頑張って欲しかった。

離婚の原因は母の事だけではないだろうが、婚家で間に挟まれて辛い思いをしている娘を思う気持ち。
私が欲しかったのはそれだけだ。

人間は何度でも生まれ変われる

人格全てを否定されたその日。
今でもこのことを思い出すと悔しくて涙が出る。

でも、この経験が全て負の遺産かというと、そうではないと思ってる。

私はこの日から生まれ変わった。
ゼロに戻ったのだから、そこから成長すればいい。

今思い出してみると、結婚するまでの私は人間として未熟だったし、社会的常識にも欠けていたと思う。
荒療治だったけど、それに気づかせてくれて修正させてくれた結婚期間には感謝している。

姑から教わったことを守って少しは成長できたので、その後私は社会人として通用できる人間になれた。社会に必要な人間になれた。
子ども達も優しく愛される子に育ってくれたのも、姑のおかげだと思ってる。

姑も今では私のこと大絶賛してくれているとのこと。

人生に全て無駄なことなんてない。何度でも這い上がってやる!

後は灰汁の抜けきった母をしっかり介護して、満足の行く人生を全うしてもらうことに専念しよう。

思い出すと胸が痛くなる焼きそばUFOの話 食べ物のトラウマ

小さい頃から自分で何でもする子だった

私は小さい頃から、自分でできることが多かった(仕方なくやっていたのか?)
恐らく幼稚園にも入らない頃3~4歳だろうか、踏み台を使ってガスコンロの前に立ち、ヤカンを火にかけてお湯を沸かし、紅茶を自分で入れていた記憶がある。

食パンの場所とトースター、ピーナツバターを出している記憶があるので、恐らく自分でトーストを焼いて食べていたと思う。

小学校に入ると、食パンと紅茶の朝食を準備して弟たちを起こし、学校に行く準備をさせていた。
(その時母は寝ていたことしか思い出せない)

中学校~高校では、家事の一部を分担した

「女の子だから」「お姉ちゃんだから」という理由で、今まで通り朝食の準備と弟たちの世話に加え、夕食の後片付けが私の仕事になった。

高校になると更にそこに、お弁当作りと夕食の準備が追加された。

学校帰りに制服のままスーパーに行き食材を買いに行く。帰宅後夕食の準備をして、弟たちに食べさせて片づける。

食費は1日1000円以内だったかな?
お小遣いはもらってなかったので、やりくりして余ったらお小遣いにしていいと言われていたので、節約して残ったお金で本を買うのを楽しみにしていた。

母から料理を習ったことは無いので、メニューのレパートリーが少なく、毎日ハンバーグとカレーと明太子スパゲッティとグラタンの繰り返しだった気がする。

忘れられないエピソード

休日の朝、お腹が空いたので冷凍ピラフを自分で炒めていると、寝室で寝ていた母に怒鳴られた。

「うるさい!二日酔いで頭が痛いからガンガン響く!」
(お母さんが起きてこないから自分で作ってるのに、なんで文句言われなあかんの?)

またある時は、いつものように明太子スパゲッティを作ったら、その日は母も夕食を一緒に食べる日だった。
食卓を見た母は渋いかをしながら言った

「うわぁ、食べるもんがないなぁ」
(これでも頑張って作ったのに、そんな言い方はないだろう)

なんでもないエピソードなのだが、その何気ない一言がとても悲しくて、いまだに思い出して胸が痛くなる。

トラウマになってしまった出来事

これもとある休日の昼時。

いつものようにパチンコに行って母が帰ってこないので「お腹が空いた」という弟に焼きそばUFOを作ってあげた。
でも、作り方を間違えてしまい、とても味の薄い焼きそばになってしまったのだ。

それでも弟は「姉ちゃん、おいしいわ」と言って、美味しそうに食べていた。

これも何でもない出来事かもしれないが、今でもこの光景は脳裏に焼き付いており、切なくて涙が出てくる。

失敗してごめん。美味しくないご飯でごめん。

今私はシングルで2人の子どもを育ててきたが。
できるだけ手作りのご飯を食べさたいと思って実践してきた。
インスタントラーメンやコンビニ弁当などを食べさせることができないのだ。
このUFOの一件があり、切ない思い出がフラッシュバックするので。
お弁当系は自分が食べれないから、子ども達にも食べさせられない。

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母は「毒親」だった

逆に子ども達にとっては「たまにはコンビニ弁当食べたい」「インスタントラーメンも食べたい」となっているので、何が正解なのかは分からないが。

反面教師

幼い頃は私は、自分でできることは自分でするのが当たり前だと思っていて、何の抵抗もなかった。


中高生になると、手伝うこと自体に反発は無かったが、母親のだらしなさや不条理な言動には納得できないことがあり、「絶対お母さんみたいにはならない!」と思っていた。

高校生当時の自分のモットー三原則
「自分がされて嫌なことは人にしない」
「自分のことを棚にあげない」
「人に見返りを求めない」

振り返ってみたら、全て母に対する反発だということに気が付く。

逆に、母がいたから私は反面教師で頑張ってきたので、今の自分があるのだと感謝の気持ちすらある。

そんなトラウマを抱えつつ、介護を続けている日々。

毒親と娘の、お金にまつわるエトセトラ 子ガチャは当りだったのか?

高校時代~看護学校

看護学校は先生の勧めで入った定時制の看護学校。
病院で働きながら学校に行く。
勤務先の病院が入学金などを立て替えてくれて、給料から天引きしてくれるシステム。
母には全く負担をかけずに行くことができた。

高校はバイト禁止だったけど、推薦決まった後に内緒でバイトして10万円貯めた。
寮があるとはいえ、初めての一人暮らし。当面の生活費&お小遣いの為に。

ところが、そのお金さえ「お金が足りないから、ちょっと貸しといて」と、一旦母の手に渡った。
(引っ越しギリギリで返してもらった)

看護学校時代

お盆やお正月に帰省するとき「あんたが帰ってくるから、食べ物買うのにお金が無いからお金送って」

え?それ、何かおかしくない??と思いつつ、事前にお金を送って帰省する。

食べきれないくらいのご馳走を作って待っている。
母の愛は分かる・・・が、出元は私だぞ?
しかも、いつも多量過ぎて余らせてしまう。食品ロスだ(何度も言うが、私のお金だ)

看護師時代

看護学校時代、おかしさに拍車がかかる。

帰省前の「お金送れ」はデフォルト。
その他、普段の生活の中でも「どうしてもお金が足りないから送って」という電話がかかってくる。

私も夜勤もしていたし、それなりの給料をもらっていたとは言え、一人暮らしの生活費や帰省の時の交通費(名古屋から九州まで)、帰省時の自分の食費(?)が毎度となると、そんなに楽々出せるものではない。

毎回ではなく、何回に1回は断るようにしていたのだが。
敵もさるもの引っ搔くもの、そう易々とは引き下がらない。

この辺りから、私と母の関係は険悪になっていた。

一番辟易したのは、夜勤入りの日のお金の無心だ。
17時まで仕事して仮眠して、その日の23時には夜勤の為に起きて仕事に行かなければならない。
ただでさえ目がさえて眠れない夜勤入り。少しでも穏やかにして、寝ることに専念したいのに。
「お金がない、送って」
今日は夜勤だからとにかく寝たいと言っても「あんたは何でそんなに冷たいんや。お母さんはこんなに困ってるのに!!」

そんな会話をしているうちにヒートアップしてきて、私はますます眠れなくなる。

母親というものは、夜勤に行くために寝ようとしている娘を、心配したりするものではないのか??

母は「自分が大変」な時は、娘のことを思いやる余裕がなくなる。そんな人。
この当時のことは、嫌な記憶としてインプットされている。

対策を講じる

突拍子もないタイミングで無心。その金額も様々で、時々高額になることがあり。
金銭面でも精神面でもかなり疲弊してきたので、対策を講じることにした。

「月々決まった額を仕送りするので、その範囲内で使って。これからは突然お金は送らない」

その場では「お金を定期的にもらえる」と喜ぶ母。
しかし、結果的にはいつもお金が足りなくなるらしく「お金送って」→「約束が違うでしょ」→「足りないんだから仕方ない」→ヒートアップ・・・の繰り返し。

田舎に帰省したときに、欲しいと言っていたソファを買ってあげようと思って準備してたお金を、全部パチンコにつぎ込んだこともあったっけ・・・。

結婚式そして離婚

私が結婚することになった。
まずは、両親顔合わせの日は、神戸まで来てもらったのだが。
持ってきたワンピースが虫喰いしていることが直前に発覚。
「そのスーツ貸して」と、私のスーツを奪おうとする母。
(ちなみに、母には数着のスーツを貸している。確認せずに、よりにもよって虫食いワンピースを持ってきてしまっただけ)

結婚式は交通費も出して、ホテルも取って招待した。
当時一緒に住んでいた弟も呼んだのだが。当然、弟の交通費と更にスーツ代も私が出した。

後日談。
私が定期的に仕送りしていたこと、他にもたくさんお金を出したこと。
本人は全く覚えていなかった。

一生懸命働いても母は生活が苦しいというのだから、私が仕送りするには当然だと思ってたし、それほど抵抗もなかった。
ただ、当時の母は「看護師して稼いでるんだから、お母さんを助けて当然でしょ」という態度(口にも出す)だったこと、感謝の気持ちがない(忘れていることが典型)ことに対して、私は言いようのない不満を感じていた。

また、そんな母親を見て、元夫の両親が思うところが多々あり。
私は常に、非常識な母の娘というフィルターを通して見られ続けた。
10年後離婚に至った時も、母という存在が大きく関与していたことは、元夫と姑の口からもはっきり聞いたし、原因の一つになったことは間違いない。

結婚していた10年間。母と婚家との確執で、間に入った私は常に苦しめられ続けた。

そして現在

パーキンソン病+レビー小体型認知症になり、幻覚も見えるようになった今。

幻覚の90%はお金にまつわるエトセトラ・・・・

「財布が無くなった」「お金を盗まれた」「財布の中にお金がない」等々

幼いころの体験から来る劣等感(これは不可抗力なので、私も理解している)、その後の人生の中でも常にお金に苦労(多くは自身の仕事や金銭管理のだらしなさが原因)が、今の幻覚に大きく影響を受けているらしい。

幻覚でまでお金に執着するなんて・・・と
姉弟集まると、母の奇行をネタにして笑い合い、愚行をつまみに酒を飲んでいつまでも盛り上がれる。
過去に憎しみあったこともある母だが、不思議と私たち姉弟はそんな母をそれほど恨んでいない。

子ガチャは絶対当りなんじゃない?お母さん。