2024年 2月 の投稿一覧

最期のステージ 奇跡の出逢いと最期の力を振り絞った舞台

末期がんのTさん

24時間の介護及び看護のサービスを行っていた事業所に、とある利用者さんの依頼が来ました。

末期がんの60代男性Tさん。
別の県で療養していたけれど状態が芳しくなく、ご友人たちが説得して自宅に戻ってくるとのこと。

多くの仲間たちに介助されて自宅に戻って来たTさんは、私達が想像していた以上に状態が悪く、驚きました。

介護保険も利用せず、知人たちの介護だけで生活していたというTさん。
介護をするためのツールが何も整っておらず、急ピッチで様々なサービスを整えました。

沢山のご友人たちの介護

Tさんの部屋は、毎日たくさんの知人が訪れていました。
必要な食べ物や飲み物の調達から、中には介護福祉士さんもいらっしゃって、身の回りのことや介護も対応してくださってました。


そんな訪問者の中に、見覚えのある顔があったのです。
最初に会った瞬間から、お互いが「どこかで会ったことあるなぁ??」と思いながら応対してたのですが、それがどこの誰なのかさっぱり見当がつかないまま経過。

そんなある日。知人の方達のキーワードで「ひょっとして!!」と突然記憶が繋がりました

Iさんが繋げてくれたご縁

私が訪問看護ステーションの管理者をしていた時、Iさんという若年性認知症の利用者さんの訪問を担当していたことがありました。

認知症が進行して、誤嚥性肺炎などで入退院を繰り返していたIさん。奥様が献身的に介護をされており、とても素敵なご夫婦でした。

奥様のHさんは、Iさんが認知症だと分かった時から、認知症が進行しないように散歩に行ったりカラオケに行ったり、様々な人と交流できるように努力されてきたとのこと。

その後Iさんは何度か誤嚥性肺炎を繰り返すうちに徐々に衰弱、在宅看取りとなりました。

看取りの後、Iさんの奥様Hさんは何かと私に声をかけてくださいました。
私もグリーフケアなどの交流を通して更に親しくなり、「お礼がしたいから」と、とあるお店に招待されました。

もとお寿司屋さんのマスターが作る美味しい料理を食べながら、カラオケも歌えるというお店。
生前、認知症予防のためにIさんと一緒に来ていたお店です。
私は数回そのお店にご一緒させていただき、Iさんの思い出を語ったり、Hさんのグリーフケアを行ったりしながら、マスターやそのご家族、お店のお客さんとも交流を深めることとなったのです。

今回Tさんの所に来ておられたご友人たち、実はこのお店のマスターやスタッフさん、そのお客さん達だったのです。

しかもなんと。全くの偶然なのですが、ケアマネさんも同じ。
あまりにも偶然が重なりすぎて、ケアマネさんもびっくりしてました。

これはIさんが繋げてくれたご縁だ。

実はHさんのことを紹介してくれたのも、私が看取りをした利用者さんのキーパーソンさん。
こうしてご縁は繋がっていくものなのですね。

Tさんの最期の願い

Tさんは、介入当初からかなり状態が悪く、余命はそう長くないと思っていました。
ただ、Tさんが自宅に戻ってこられた理由は「最後に舞台に立ちたい」ということでした。

Tさんはラジオのパーソナリティなどを経験されていた方でもあり、以前よりこのご友人たちが開催するコンサートにゲスト出演されていたとのこと。

「最後に舞台に立って歌いたい。お世話になった人達に感謝の気持ちを伝えたい」

数日後に予定しているコンサート。
そのコンサートを目標に、ご友人たちが力を合わせて介護し、本人も英気を養い、コンサートの計画を進めておらました。

正直な所。
コンサートが終わったら、全ての力を出し尽くしてしまうのではないか。
いや、そもそもコンサートまで体調が持つのか?
そんな不安を抱えつつも、それでも何とかしてこのコンサートを成功させてあげたい一心で、私達もフォローしました。

コンサート当日

休日ということもあり、介護タクシーの手配にも難航しました。
コンサート後も、皆の打ち上げまで見届けて帰りたいというTさんの意向もあり、帰りは20時過ぎるとのことでしたが、対応してくれる介護タクシーさんも手配しておきました。

コンサートは私も客席から見守らせていただきました。
病気を感じさせないほどの存在感、そして力強い歌声で、5曲ほど熱唱。
最後の方では、時折意識を失っているのが分かりハラハラしながらの鑑賞でしたが、感謝を伝えたい人全てに感謝を伝えコンサートは無事に終了しました。

達成感

予想通り、コンサートの24時間後にTさんは旅立たれました。

ワンルームの部屋に入り切れないほどのご友人たちに囲まれ。
何よりも、最期の願いをやり遂げた達成感でいっぱいだったことと思います。

私もご縁を繋いでいただき、関わらせていただいたことをとても感謝しています。

ちなみに。
後から思い出したのですが。
実はTさんとは、1度だけお店でお会いして隣同士でお酒を飲んでカラオケを歌っていました。

Tさんが旅立たれた後に「あれ?ひょっとしてあの時の?」と思い出したのですが。
それもご本人にお伝えすることなく、旅立ってしまわれました。

いや、ひょっとしたらTさんが天国で気が付いて、私にメッセージを下さったのかもしれないですね。

不思議なご縁で繋がった皆さまと、これからも繋がっていけますように。

「延命」と「救命」の違い ある日突然迫られる選択

「その時」は突然やってくる

皆さんの家族が、ある日突然倒れて意識不明になった

延命処置を希望するかしないか
本人の希望が聞けない状態で、家族が判断しなければならない状況が訪れることがあります。

「延命」と「救命」を家族が判断することは難しく、それを家族だけで決めてしまうことに、迷いも生じることでしょう。

人工呼吸器を装着した場合のその後

例えば。
人工呼吸器を装着した場合の経過についてお話しします。


気道を確保する「挿管」、回復が難しければ「気管切開」そして「人工呼吸器」の装着

意識が戻って危機を脱することができれば、挿管や人工呼吸器の選択は外されます。
ただ、そのまま意識が戻らない、自発呼吸が戻らないなどの状態が続けば、人工呼吸器を装着せざるを得ない状況になります。

ご本人がお元気な時に「延命を望まない」と周囲に話をしておられたら。
人工呼吸器を装着しない、又は人工呼吸器を外すという選択をすることも視野に入ってきます。

羽幌病院事件
「延命処置の中止を希望する家族の同意を得て人工呼吸器を外した医師」の事件が有名かと思いますが。

実際に、家族の同意を得て然るべき経緯を踏めば、人工呼吸器を外すことができます。

ただ、そこには色々な障壁があります。
本人が本当に「延命を望んでいなかったのか?」の証明です。

親族の中でも、意見が分かれる可能性もあります。
実際に介護をしない、遠くの親戚の方が「呼吸器をつけたままでもいいから生きていて欲しい」と、突然モノ申してくる話は良く聞きます。

医療処置をした場合の療養場所

人工呼吸器を装着し、そのまま回復の見込みがなくなった場合で、介護を続ける場合はどのような方法があるのでしょうか?
※実際に処置を施した人の場合の対処方法を紹介しています。興味の無い方は読み飛ばしてください

急性期の病院は入院日数が限られており、退院を迫られます。

①入院したままの状態を望むのであれば、急性期の病院は転院せざるをえません。

②一定期間で病院は転院する必要があります。療養型病床などの特定の病院であれば、入院を継続することは可能です。

③在宅に戻る場合は、介護保険を使って訪問介護や訪問看護を利用しながらの在宅介護になります

④施設入所を希望される場合。医療処置が必要な方を受け入れ可能な施設は少ないので、必然的に選択肢も少なくなります。

最近は、ナーシングホームと言い、医療保険が使える病名の方が入所できる施設が増えてきました。
下記の病名がある方は、そちらでの入所が可能となります。
(下記の病名がなければ医療保険は使えません)

人工呼吸器を例にあげて紹介していますが、胃ろうや経管栄養、中心静脈栄養なども同様の条件です。

エンディングノートの活用

このように、延命処置を希望するのかしないのか、選択を迫られる日はいつ訪れるか分かりません。
意思表示を聞いている人が対応すればまだ良いのですが、必ずしもその瞬間に対応できるとは限りません。

また、その判断が本人同士だけでやりとりされた約束であった場合。
その親類縁者が突然出てきて「本当にそんなことを言っていたのか?」「何も処置をせずに見殺しにするつもりなのか?」などと、意義を申し立てる可能性も少なくありません。

「口から食べられなくなった時」「誤嚥性肺炎を繰り返すとき」→胃ろうをするかしないか
もしくは、点滴をするのかどうか

「延命処置をしない」「点滴はしない」とは決めていても、点滴や投薬等で状態が改善する可能性のある時は、治療を受けた方がいいです。
例:肺炎の治療のための抗生剤の投薬(点滴、内服)等

介護をしていると、様々な判断をしなければならない状況になります。

日本人は「死」=縁起でもないことと、話すことを忌み嫌う傾向にあります。
「元気だからまだまだ必要ないだろう」と思って、先送りすることもあります。

いざという時に困らないため、家族を守るためにも
家族で話し合っておくことが大切だと思います。

エンディングノートは色々な種類のものが販売されています。
地域で「人生会議」などの名目で、エンディングノートの書き方などのセミナーなどが開催されている場合もあります。

是非エンディングノートを活用した、家族で人生会議を開催してください。

施設=悪?家族形態の変化によって看取りの場所も変わっていた

施設=悪のイメージ

介護をしている方の訴えを聞いていると、施設に入れることに対して抵抗を感じておられる方が多い印象を受けます。

親を施設に入れるなんて・・・と、罪悪感を感じてしまわれるようです。

介護はしないのに口だけ出す親類などが
「施設に入れるなんて可哀想よ」などと追い打ちをかけて
更に罪悪感を募らせる悪循環に陥ります。

現代社会の介護問題

日本の約60%が核家族です。
昭和30年代までは、大家族が主流でした。
3世帯での同居は当たり前の風景で、おじいちゃんおばあちゃんの居る家で生まれ、子供たちはおじいちゃんおばあちゃんの死を身近に見て「死」というものを自然に受け入れてきました。

介護も当然家族がするのが当たり前であり、大人から子供までが役割を分担し、子育てから介護までを家族皆で支える家族形態でした。

昭和30年代核家族化が進むと同時に医療が発達し、病気になったら入院して、最期は病院で迎えるということが増えてきました。

1950年代から看取りの場所=病院が大多数となっています。
ところが。
高齢化社会が目の前に迫ってきた2000年代
働き盛りの世代に介護の問題が必須になってくることで、介護保険が制定され、介護の負担を減らそうとする動きが出てきました。

また、その時期と同時に「看取りの場所」の問題が浮上したのです。

日本の人口の3割近くが高齢者となることを目前にし、全ての高齢者の看取りの場所が病院になったら、圧倒的に病床数が不足するという問題が明らかになりました。

介護保険制定と同時に「看取りの場所」も在宅にシフトしましょうという流れが出来上がったのです。

昭和と令和 看取りの場所と家族形態

私も長い間在宅介護・看護の世界に身を置いており、当時は「自宅で看取りをしましょう。支えますよ」と、在宅介護を積極的に勧める立場でした。

ただ、介護を全て自分がしなければならないという強迫観念、ご両親を施設に入れたことに対し、後悔や罪悪感を抱えておられる方が多い現状。
そこに対しては「違いますよ」と声を大にしていいたい。

核家族ではなかった当時は、お嫁さんは仕事をしていなかった又は農業や自営業をされており、社会との折り合いを考える必要はなかったと思います。
勿論、家事の負担は今よりも数段多く、現代よりは大変だったことは大前提として。
それでも、小さい子供たちも手伝いをしていた時代ですから、仕事・介護・家事・育児全てを担っている現代とは少し状況が違うと思います。

その後は核家族化し、病院での看取りが当たり前の時代になり
ここに来て急に「自宅で介護」「自宅で看取り」を推奨するような動きになったことが、自分で介護をしなければならない強迫観念、施設に入所ささせることへの罪悪感を生む原因になっているのではないでしょうか?

地域包括支援センターを活用しよう

私が在宅での別居介護を選択した理由は「同居介護は絶対に無理」と思ったからです。

在宅介護の現場を見てきた経験から来る確証かもしれませんが。
そもそも、元気な時の母親とでも同居は絶対に無理だと思っていたので、介護となるとそのハードルはもっと上がることは予想できました。

在宅介護に関する知識があったので、どのようにケアを組み立てれば在宅独居が可能かというのが分かったというのは大きかったとは思いますが。

介護の相談がしっかりできれば、そこの問題はクリアできると思います。
地域包括支援センターなどで相談してみましょう。

笑顔で介護できる程度の距離を作ろう

65歳以上の高齢者で、3人に1人は老人施設に入居しています。
半面、介護を理由とした離職、介護離職は2022年で7.3万人でした。

介護は24時間365日です。
介護を始めると思ってもいない壁が、次々と立ちふさがることもあるでしょう。
介護はある程度「距離」を保つことが必要だと思っています。

昭和の大家族の時代のように、介護と家事の担い手は多くなく、現代社会では仕事という社会との繋がりも必須になってきます。
介護によって社会との交流が分断されると、介護者のストレスを増加させる可能性があります。

デイサービスやショートステイ、介護保険を存分に使って、できるだけ今までの生活が続けられるよう、社会との繋がりが分断されないように心がけたいですね。

現代社会では、少ない介護者で高齢者を支えるには限界があります。

お互いが「笑顔」で過ごすことができるのを1番に考えて、選択をしていけば良いのではと思います。

認知症の対応方法その② 俳優になろう

話に付き合う、話を逸らす

ある時、母は神妙な面持ちで呟いた

「あのね。昨日頑張って仕事でもらったお金が、なくなったのよ」

あぁ。またいつものやつだ。

認知症の症状が強くなってきた当初、母のこんな一言に、正論でぶつかっていました。

私「何言ってんねん。そんな体で仕事なんてできるわけないやん。昨日はデイに行っとったやろ」
母「デイの帰りにもらったんよ」
私「誰がお金くれるねん。もらえるなら私も欲しいわ」
母「ほんとにもらったんよ。あんたはいつもそうやって人を馬鹿にして!」
・・・と言う感じでお互い語気が強くなり、不穏な空気が漂い始めます

実はこれは間違った対処方法です。
認知症のことを理解していたはずなのに、自分の親に対しては正しい対処方法を実践できていなかったのです。

BPSD(周辺症状)とは

認知症の症状というのは基本的に「中核症状」と呼ばれるもので

記憶障害、見当識障害、理解・判断力の低下、実行機能障害、言語障害(失語)、失行・失認などの認知機能の障害

などがあります。
具体的に言うと

時間や場所が分からなくなる見当識障害 例:昼夜逆転、迷子など
計画的に行動することができない実行機能障害 例:料理ができなくなるなど
今までできていた日常生活の動作ができなくなる失行 例:服が正しく着ることができないなど
物が理解できなくなる失認 例:人の顔が分からなくなる

という感じです。

ここで、認知症の症状として誤解されがちなのが
周辺症状と呼ばれる症状です。

暴言・暴力、徘徊、うつ状態、不潔行為、妄想など

じつはこれらの症状は二次的症状と言われ、認知症の症状によって起こされる症状なのです。

認知症になると、前述した中核症状があることによって大変不安な気持ちになります。
できなかったこと、失敗したことに関して、本人は何故それができなくなったのかとても不安で焦っています。

そこへ「何でできないの?」「違うでしょ?」「ちゃんとして」などの声掛けをされると、ますます不安になります。
見当識障害によって「されたこと言われたこと」は、忘れることはあっても、不安な気持ちは残ってしまいます。
不安が蓄積すると、暴言や暴力、うつ状態などの症状を引き起こす可能性があります。

徘徊については、徘徊するには理由があります。
参照:「徘徊」ではありません!在宅で安心して暮らす地域の課題とは?
「どこか行きたい所がある」から外に出る、見当識障害や失認があるから家に帰れなくなる。

また、不快なことがある(「便秘でお腹が苦しい」「失禁して下着が汚染して気持ち悪い」等)けど、どのように訴えていいか分からない、何をどうしたらいいか分からないから、弄便(ろうべん:便を触ること)や汚染した下着を隠したりするのです。
それが、不潔行為と言われる行為です。

認知症の中核症状を理解し、適切に対処することで、周辺症状は最小限に留めることができるのです。

俳優になろう

では「財布が無い」と言い始めた時に、実際にどうするのが良いのか?

認知症介護のストレス軽減テクニック 物盗られ妄想の対応方法
では、同じものを準備して渡すというテクニックを紹介しました。
否定するのではなく、別の話に誘導するという感じですね。

「昨日は仕事なんて言ってないでしょ?」と正論を伝えても、本人の頭の中では「仕事に行ってお金をもらった」ということが記憶として認識されているので、本当のことを言ったとしても「否定された」としか感じません。

ここは一度俳優になって付き合ってみましょう。

母「昨日仕事に行ってもらったお金が無くなったのよ」
私「そのお金なら、金庫に入れたよ」
母「買い物行きたいから、少しくらい持たせてちょうだい」
私「後で買い物行こう。もうすぐおやつの時間やから、コーヒー淹れよか?」
母「そうね。ありがとう」

という感じに。
実際はこれよりも若干長引くことはありますが。
それでも、一旦受け止めて付き合うことで「認めてもらえた」という安心感で、徐々に落ち着いていくはずです。

認知症でも笑顔がいっぱいだったHさん

訪問看護に行っていた認知症の利用者さんで、印象に残っているHさん。

おやつはあるだけ全部食べてしまう、何度も何度も同じ会話を繰り返す。
認知症はかなり進行している方でした。

でも、娘さん、お孫さんはそんなHさんに対して、
決して否定せず「あら、そうなのね」といつも笑顔で応対していました。

Hさんはいつも笑顔で、周辺症状もそれほど強くありませんでした。

認知症になって不安なのは本人が一番感じているはずです。
介護する側が笑顔で「大丈夫」と対応していたら、少しでも安心して過ごすことができます。

完璧にはできなくてもいいですが、俳優になって笑顔でかわす時間も確保するのも、一つのテクニックですね。

認知症介護のストレス軽減テクニック 物盗られ妄想の対応方法

見当識障害とは?

認知症の症状として、初期の段階から見当識障害が現れます。

見当識障害とは
現在の年月や時刻、自分がどこにいるかな ど基本的な状況を把握すること。

物忘れと認知症の見当識障害の違いはこちらの記事も参照
認知症の初期症状 物忘れと認知症の違いは?

「夜なのか朝なのか分からなくなる」
「自分がどこにいるのかわからなくなる」

この症状が進行してくると、日常生活でも様々なトラブルが生じるようになってきます。

物盗られ妄想の出現

見当識障害が進んでくると、大切な物がなくなってしまうという場面が多くなります。

認知症の方は特に、大事にしている物ほど「隠そう」とする意識が高くなるようで
大事だから隠す→隠し場所が分からなくなるという現象が起こります。

多くは財布だったり、通帳だったり。
無いことに気が付いた時は、大騒ぎになることでしょう。

前述のブログ記事でも紹介した通り、物忘れでは「財布をどこにしまったのか分からなくなる」のですが、認知症では「財布をしまったことを忘れてしまう」ので不安になり「盗られた!」となるのです。

さて。
介護する家族の方たちは、こんな時にはきっと「盗るわけないでしょ?自分でしまったんじゃないの」と、ついつい正論を言いたくなりますよね?

私もそうでした。
母の認知症が進み「財布盗られた」と毎日のように電話がかかってくるので
私「そんなことあるわけないやん。自分で買い物してるんやん。レシート見てごらん?」
母「誰かが私のお金で買い物したんやわ!」
私「冷蔵庫見てごらんよ、買ったもん入ってるで」
母「私のお金を勝手に使って。全部食べられた」
私「自分で食べたんやん!!(怒)」

・・・と、収拾がつかない会話で、気持ちはどんどんエスカレートしていきます。

在宅看護の経験も長く、認知症の対応もよく知っているはずの私が・・・です。

話は少し逸れますが。
親の介護が始まった時、自分でできる間は何とかしようと思ってしまいがちです。
でも、近親者であればあるほど、お互いの思いは強くなり
家族としては、今までの元気でしっかりしていた父母の姿が思い浮かび「どうしたの?何でそんななの?もうちょっとちゃんとして」と希望に目が行きがちになります。
介護される認知症の方も、他人の前では「取り繕い」と言って、認知症であることを悟られないように頑張ります。
ただ、記憶が曖昧になったことに対する不安は根底にありますし、何より「ちゃんとしたい」と思っているのはご本人なのです。
一番甘えられる家族には、ついつい本音が出てしまい、怒ったりしてしまうのです。

私の場合は。
そもそもが、出産後に母が泊まりに来てくれたのですが、2日くらいで大喧嘩になってしまった経緯がありました。
ある程度の距離感がなければ、きっと喧嘩してしまい、お互いのためにならないと思って
最初から、プロにお任せすることに決めていました。

介護は過半数をプロにお任せして、要所要所ではキーパーソンとして対応する。
時々顔を出して、笑顔で対応できる時間を確保する。
それが、介護が上手くいくコツのひとつだと思っています。
私の場合は、それで成功しました。

言い争いになって、お互いが嫌な思いを抱えたままでは、お互いがストレスになりますし。
認知症の方の対応で、「否定」や「強制」をすることで、周辺症状(BPSD)=物盗られ妄想、暴言、暴力などが酷くなる可能性があります。

笑顔で対応できる時間を長くする
そのために、できる範囲でプロ(介護士、看護師等)にお任せするのが一番だと思います。

物がなくなったとき、笑顔で乗り切るグッズ

物盗られ妄想対策の話に戻りますね。

物がなくなったとき。
上記のような言い争いをしていては、状況は改善するどころか、悪化するばかりです。

対策としては「なくなりそうな物は何個か用意しておく」です。

同じような財布を何個か準備して「なくなった」と言い始めたら「ここにあるよ、はいどうぞ」と、予め隠しておいた予備の財布を渡す。

そうすると。
「あら、そこにあったのね」であっさり解決します。

母の場合、財布を持たせると買い物に行ってしまい浪費してしまったり、迷子になって警察のお世話になることがあるので、財布は「盗られるから金庫に隠してる」で徹底しましたが。

タッチペンはすぐになくすので、百均で何本か準備しておき、なくしたら渡す。
出てきたらしまっておく・・・の繰り返しで、怒ることはなくなりました。

紛失防止タグで探すのも効果ありです。
ただこれは、タグを探すリモコンがなくなってしまうということが起こるので要注意です。
リモコンは隠しておきましょうね。

240130164607667

「母が嫌い」口してもいいのだと安堵した 青木さやか「母」読後感

母が嫌いだった。わたしの脳内は母の固定観念で支配され、わたしはわたしが嫌いだった。

青木さやか「母」

ずっと言ってはいけないと思ってた

母が嫌い。
そんな言葉を口に出すことはタブーだと思っていた。

この本を読み始めた瞬間に、冒頭に上記の一文があり、私は一気に本の世界に引き込まれるとともに、安堵の波が押し寄せた。
口に出してもいいのだと、50年近くの時を経て、ようやく解放された気分になった。

産後の手伝いで口論になる

母と私は親子としての関係を辛うじて維持しつつも、何度となくぶつかりながらの月日が経過していた。

私が第2子出産後のことだった。
母が泊まり込みで手伝いに来てくれた。
いや。無理矢理そういうセッティングにさせられたというのが正しい。

当時姑が全てを仕切っていて「産後はお母さんに1週間ほど来てもらって、その後は私が手伝うからね。その方がいいわよ」

正直なところを言うと、本当は一人で過ごす方が良かった。
気を使って仕方がない。

だが、姑の発言は絶対なので、逆らうことはできず、いう通りに母にも手伝いに来てもらうことになった。姑の配慮も有難いのだが、ある意味親切の押し付けでありる。ありがた迷惑じゃないか!と思ったけれど、今回はその話ではない。

高校卒業して家を出て以降、母とは帰省の時に2泊ほど一緒に過ごす程度。
私は休暇、母は久しぶりに帰省した娘をもてなして過ごす、いわば特別な日。
今回は、娘の家で手伝いをするという、一時的な同居生活のようなもの。
その違いは大きかった。

私は決して文句を言っているつもりはない事象に対しても、何度となくぶつかってくる。
私はその都度、怒りを抑えて穏やかに対応しようとしていたが。


「このお皿はここにしまって」
「この洗剤は泡立ちにくくて油切れが悪いから、熱めのお湯の方がいいよ」

そんな些細な声かけにたいして、突然母は怒り出してしまった。

「あんたはそうやって、私をバカにして!何にもできなくて申し訳なかったですね。私はどうせ頭が悪いから、何にもできませんよ」

と、勝手に一人で僻んで怒り出してしまったのだ。

バカにするって、そういうこと?ただの僻みじゃないか!!

ただでさえ、出産直後で睡眠不足及び疲労蓄積、母親との慣れない生活で気疲れも重なり
私もとうとう、言ってはいけない一言を言ってしまった。

「もういいよ。そんなに嫌なら帰って」

この本にも似たような場面があった。産後に来訪した母親。その母親に対して嫌悪感を抱いたというシーン。

そうだよ。
何よりも愛しい我が子を出産し、穏やかであろうその瞬間だって、憎しみの感情は生まれてくるんだ。
私は、この部分を読んだとき、まさに母に怒鳴ってしまったあの瞬間が思い出されたのだった。

自分が母親になったら、母親の気持ちが分かるようになると言うけれど、あれは嘘だ

母になったからと言って、分かるわけではない。

著者と母親のとの関係も、母になった瞬間から変わるものではなかった。
私も同じだ。

ただ
子どもが大きくなり、私自身との関係が母として子として成長していく過程で、
少しずつ変化していくものなのかもしれない。

あんなに憎んでいたものを、今更否定したくない。
そんな複雑な気持ちを抱えつつも、少しずつ変化していく。
著者の心の変化にも大いに共感することばかりだった。


認知症になっても残るもの 年齢を重ねて昇華されるもの
娘や孫たちの来訪を心待ちにして、ご馳走を作って玄関先で待ち続けた母の立ち姿
こんな時には、必ずこの母親の姿が目に浮かぶ。

決して「良い母親」ではなかったかもしれないけれど
少なくとも「子ども」を思う気持ちはあるのだということを思い知らされる。

旅立ちの瞬間は自分で選ぶ 枕元に残された煙草の吸殻

末期がんでの一人暮らし

Mさんは末期の肺癌の男性。
医療機関に入院していましたが、退院して一人暮らしを再開することになりました。

末期で一人暮らし。
介護保険のサービスを利用すれば、それは決して不可能ではありません。

前述した定期巡回随時対応型訪問介護看護があれば、24時間の訪問介護サービスは受けられるし、ナースコールもあって、緊急時に対応してくれます。

訪問看護も休日や夜間はオンコールで対応してくれますし、訪問診療の先生も増えてきました。

末期がんの方であれば、最期にどうしても入院したいと思えば、ホスピス(緩和ケア病棟)などに予約を入れておいて、タイミングを見て入院することもできます。

家に帰って煙草が吸いたい

Mさんが自宅に戻ることを決意した理由は「自由に煙草が吸いたい」でした。

病院の敷地内は禁煙のことが多く、入院生活はMさんにとって不自由でしかない場所でした。

勝手に外出したり、禁煙スペースで煙草を吸ったりして、病院側からすればMさんは問題ケースでした。

ただしそれは、自宅に帰ってしまえば、その願いは何の問題もありません。
Mさんは自宅に帰ることを決意しました。

煙草を吸って、映画を見る毎日

訪問診療、訪問看護、定期巡回随時対応型訪問介護看護サービスを利用し、Mさんはご自宅に戻られました。

自宅に戻ったMさんは、煙草を吸って映画を見るという、希望通りの生活を再開することができました。

ただそれは、そう長くは続きませんでした。

末期の肺癌患者であったMさん。
ほどなく病状が進行し、移動するだけで息苦しさが増強し、室内の移動もままならない状態になってきました。

旅立ちの瞬間は自分で選ぶ

「旅立ちの瞬間は、皆様それぞれご自分で選べらます。賑やかな旅立ちを希望する方は、家族や親類が揃うのを待ってから旅立ちます。家族に心配をかけないようにと気遣う人は、家族が寝静まった時に旅立ちます」

尊敬する訪問診療の先生が、講義で言っておられた言葉です。

思い返してみれば、私自身の看取りの体験の中で、思い当たることばかりでした。

旅立ちの瞬間は、ドラマの中の臨終の場面のように、家族がみんな傍にいて手を握って、最期の言葉を発して旅立つ・・・というようなことは絶対にありません。
本当に、その方の生き方や希望が現れるように旅立たれます。

Mさんの旅立ち

Mさんは徐々に動けなくなり、ベッドから起き上がれなくなりました。

人の旅立ちは夜中や明け方が多いですが、Mさんの場合は昼間でした。

1週間に1回の往診で、先生がMさんの往診に訪れた時です。
先生の目の前で、息を引き取られました。
誰かの目の前で息を引き取られることは、実は滅多にないことで。
家族がつきっきりで見守っているならばあり得ますが、独居の方はその確率は限りなく0に近いのです。
訪問したら息をしていなかったということが大多数でしょう。

妻や子どもと疎遠になり音信不通
身近な人間と言えば、足を悪くしてお見舞いに来ることもままならないお姉さんだけ。

恐らく、一人で気ままに過ごすことを好み、最期も一人で自宅を選んだMさんですが。
最期は誰かに看取って欲しかったので、先生が来られるタイミングを待っていたのではないでしょうか?

そして。
枕元の灰皿には、1本の煙草の吸殻
今わの際に好きだった煙草を1本吸い、見守ってくれたドクターの訪問にホッと安心し
穏やかに旅立たれたことと想像しています。