2024年 1月 の投稿一覧

思い出すと胸が痛くなる焼きそばUFOの話 食べ物のトラウマ

小さい頃から自分で何でもする子だった

私は小さい頃から、自分でできることが多かった(仕方なくやっていたのか?)
恐らく幼稚園にも入らない頃3~4歳だろうか、踏み台を使ってガスコンロの前に立ち、ヤカンを火にかけてお湯を沸かし、紅茶を自分で入れていた記憶がある。

食パンの場所とトースター、ピーナツバターを出している記憶があるので、恐らく自分でトーストを焼いて食べていたと思う。

小学校に入ると、食パンと紅茶の朝食を準備して弟たちを起こし、学校に行く準備をさせていた。
(その時母は寝ていたことしか思い出せない)

中学校~高校では、家事の一部を分担した

「女の子だから」「お姉ちゃんだから」という理由で、今まで通り朝食の準備と弟たちの世話に加え、夕食の後片付けが私の仕事になった。

高校になると更にそこに、お弁当作りと夕食の準備が追加された。

学校帰りに制服のままスーパーに行き食材を買いに行く。帰宅後夕食の準備をして、弟たちに食べさせて片づける。

食費は1日1000円以内だったかな?
お小遣いはもらってなかったので、やりくりして余ったらお小遣いにしていいと言われていたので、節約して残ったお金で本を買うのを楽しみにしていた。

母から料理を習ったことは無いので、メニューのレパートリーが少なく、毎日ハンバーグとカレーと明太子スパゲッティとグラタンの繰り返しだった気がする。

忘れられないエピソード

休日の朝、お腹が空いたので冷凍ピラフを自分で炒めていると、寝室で寝ていた母に怒鳴られた。

「うるさい!二日酔いで頭が痛いからガンガン響く!」
(お母さんが起きてこないから自分で作ってるのに、なんで文句言われなあかんの?)

またある時は、いつものように明太子スパゲッティを作ったら、その日は母も夕食を一緒に食べる日だった。
食卓を見た母は渋いかをしながら言った

「うわぁ、食べるもんがないなぁ」
(これでも頑張って作ったのに、そんな言い方はないだろう)

なんでもないエピソードなのだが、その何気ない一言がとても悲しくて、いまだに思い出して胸が痛くなる。

トラウマになってしまった出来事

これもとある休日の昼時。

いつものようにパチンコに行って母が帰ってこないので「お腹が空いた」という弟に焼きそばUFOを作ってあげた。
でも、作り方を間違えてしまい、とても味の薄い焼きそばになってしまったのだ。

それでも弟は「姉ちゃん、おいしいわ」と言って、美味しそうに食べていた。

これも何でもない出来事かもしれないが、今でもこの光景は脳裏に焼き付いており、切なくて涙が出てくる。

失敗してごめん。美味しくないご飯でごめん。

今私はシングルで2人の子どもを育ててきたが。
できるだけ手作りのご飯を食べさたいと思って実践してきた。
インスタントラーメンやコンビニ弁当などを食べさせることができないのだ。
このUFOの一件があり、切ない思い出がフラッシュバックするので。
お弁当系は自分が食べれないから、子ども達にも食べさせられない。

関連記事
母は「毒親」だった

逆に子ども達にとっては「たまにはコンビニ弁当食べたい」「インスタントラーメンも食べたい」となっているので、何が正解なのかは分からないが。

反面教師

幼い頃は私は、自分でできることは自分でするのが当たり前だと思っていて、何の抵抗もなかった。


中高生になると、手伝うこと自体に反発は無かったが、母親のだらしなさや不条理な言動には納得できないことがあり、「絶対お母さんみたいにはならない!」と思っていた。

高校生当時の自分のモットー三原則
「自分がされて嫌なことは人にしない」
「自分のことを棚にあげない」
「人に見返りを求めない」

振り返ってみたら、全て母に対する反発だということに気が付く。

逆に、母がいたから私は反面教師で頑張ってきたので、今の自分があるのだと感謝の気持ちすらある。

そんなトラウマを抱えつつ、介護を続けている日々。

パーキンソン病とは? 基礎知識と母の経過

病気の基礎知識

パーキンソン病とは

脳の中の運動を司る部位の神経細胞が減少し、その神経が働くときに使うドパミンという物質が減ることによって起こる病気。ドパミンは運動機能を調節する働きがあるため、ドパミンが減ることによって動きにくくなったり、手が震えたりする病気。

治療法としては、不足しているドパミンを補い血中濃度を安定させれば、主症状は落ち着くことが多い。
ただし、症状によっては1日何回も時間を決めて薬を内服しなければならない。薬を内服し忘れると、ドパミンが不足し、動けなくなってしまうこともある。

更に認知症を併発していると、薬の自己管理は非常に難しくなる。

レビー小体型認知症とは

レビー小体型認知症はアルツハイマー型認知症に次いで2番目に多い認知症で、血管性認知症とともに「三大認知症」といわれている。

レビー小体はたんぱく質のかたまりで、神経細胞を傷つけてしまう物質。
レビー小体が脳幹に多くできるとパーキンソン病、大脳皮質に多くできるとレビー小体型認知症となる。

症状は主に、認知機能の低下の他に、幻視や睡眠時の異常行動などがある。

レビー小体型認知症には病気そのものを直す薬はなく、症状を遅らせたり、精神的な症状を抑えたりする対症療法などが主な薬物療法となる。

母のパーキンソン病について

発症から診断まで

発症したのはおそらく60歳になるかならないかの頃。
その頃はまだビルの清掃などの仕事をしていたのだが、手の震えを訴え始めた。

今思えばなぜすぐに「パーキンソン病」を疑わなかったのかと、現役訪問看護師として情けない失態を冒してしまったのだが。
本人が気付かないうちに脳梗塞などを起こして、運動障害が出てしまったのだろうか?などと思っていた。

清掃の仕事の会社は「そんなに手が震えているのでは仕事は任せられない」といってクビになった。
母も本格的に通院を始め様々な検査を実施し、パーキンソン病と診断された。

薬物療法をしながらの独居生活

発症初期は手の震えもあったが、薬物療法が安定してくると主症状も落ち着き、日常生活にそれほど支障もなかった。
認知症もまだ進行しておらず、私たちが帰省するのを楽しみにしており、得意だった(大量の)料理を作ってもてなしてくれた。

新型コロナウイルスの影響で症状が進行する

新型コロナウイルスが流行し、それまでお盆と正月に帰省していたのだが、集まるのはやめた。
また、恐らくデイサービスなども自粛になったり、訪問のサービスの回数も制限したりして、社会的孤立の影響を大いに受けたことと思われる。

その頃から、時々倒れて動けなくなって、翌日発見され救急搬送。発熱し救急搬送・・・などということが増えてきた。

意味の分からないメールや電話などが来るようになったのがこの時期で、恐らくこの時期に認知症の症状が進行したのだろう。

救急搬送からの入院、そして引っ越し

最後の救急搬送から引っ越しまでは、以前の記事参照
在宅で介護を続けられる理由

当時私の勤めていた定期巡回随時対応型訪問介護看護を利用し、神戸での在宅生活へシフトした。

薬の内服は 起床時、朝食後、昼食後、15時、18時、就寝前の5回
1人暮らしの時には、恐らく内服忘れなどもあったであろう。
複数回ヘルパーが介入し服薬確認することで、ドパミンの血中濃度は安定し、生活も安定した。

ただし。
安定しすぎて、外をフラフラ彷徨うので、迷子になってしまう。
毎日がパーティの連続で、飯台いっぱいにバラ寿司作ったり、一人焼肉パーティしたり。
別の苦労は付きまとうのであった。


毒親と娘の、お金にまつわるエトセトラ 子ガチャは当りだったのか?

高校時代~看護学校

看護学校は先生の勧めで入った定時制の看護学校。
病院で働きながら学校に行く。
勤務先の病院が入学金などを立て替えてくれて、給料から天引きしてくれるシステム。
母には全く負担をかけずに行くことができた。

高校はバイト禁止だったけど、推薦決まった後に内緒でバイトして10万円貯めた。
寮があるとはいえ、初めての一人暮らし。当面の生活費&お小遣いの為に。

ところが、そのお金さえ「お金が足りないから、ちょっと貸しといて」と、一旦母の手に渡った。
(引っ越しギリギリで返してもらった)

看護学校時代

お盆やお正月に帰省するとき「あんたが帰ってくるから、食べ物買うのにお金が無いからお金送って」

え?それ、何かおかしくない??と思いつつ、事前にお金を送って帰省する。

食べきれないくらいのご馳走を作って待っている。
母の愛は分かる・・・が、出元は私だぞ?
しかも、いつも多量過ぎて余らせてしまう。食品ロスだ(何度も言うが、私のお金だ)

看護師時代

看護学校時代、おかしさに拍車がかかる。

帰省前の「お金送れ」はデフォルト。
その他、普段の生活の中でも「どうしてもお金が足りないから送って」という電話がかかってくる。

私も夜勤もしていたし、それなりの給料をもらっていたとは言え、一人暮らしの生活費や帰省の時の交通費(名古屋から九州まで)、帰省時の自分の食費(?)が毎度となると、そんなに楽々出せるものではない。

毎回ではなく、何回に1回は断るようにしていたのだが。
敵もさるもの引っ搔くもの、そう易々とは引き下がらない。

この辺りから、私と母の関係は険悪になっていた。

一番辟易したのは、夜勤入りの日のお金の無心だ。
17時まで仕事して仮眠して、その日の23時には夜勤の為に起きて仕事に行かなければならない。
ただでさえ目がさえて眠れない夜勤入り。少しでも穏やかにして、寝ることに専念したいのに。
「お金がない、送って」
今日は夜勤だからとにかく寝たいと言っても「あんたは何でそんなに冷たいんや。お母さんはこんなに困ってるのに!!」

そんな会話をしているうちにヒートアップしてきて、私はますます眠れなくなる。

母親というものは、夜勤に行くために寝ようとしている娘を、心配したりするものではないのか??

母は「自分が大変」な時は、娘のことを思いやる余裕がなくなる。そんな人。
この当時のことは、嫌な記憶としてインプットされている。

対策を講じる

突拍子もないタイミングで無心。その金額も様々で、時々高額になることがあり。
金銭面でも精神面でもかなり疲弊してきたので、対策を講じることにした。

「月々決まった額を仕送りするので、その範囲内で使って。これからは突然お金は送らない」

その場では「お金を定期的にもらえる」と喜ぶ母。
しかし、結果的にはいつもお金が足りなくなるらしく「お金送って」→「約束が違うでしょ」→「足りないんだから仕方ない」→ヒートアップ・・・の繰り返し。

田舎に帰省したときに、欲しいと言っていたソファを買ってあげようと思って準備してたお金を、全部パチンコにつぎ込んだこともあったっけ・・・。

結婚式そして離婚

私が結婚することになった。
まずは、両親顔合わせの日は、神戸まで来てもらったのだが。
持ってきたワンピースが虫喰いしていることが直前に発覚。
「そのスーツ貸して」と、私のスーツを奪おうとする母。
(ちなみに、母には数着のスーツを貸している。確認せずに、よりにもよって虫食いワンピースを持ってきてしまっただけ)

結婚式は交通費も出して、ホテルも取って招待した。
当時一緒に住んでいた弟も呼んだのだが。当然、弟の交通費と更にスーツ代も私が出した。

後日談。
私が定期的に仕送りしていたこと、他にもたくさんお金を出したこと。
本人は全く覚えていなかった。

一生懸命働いても母は生活が苦しいというのだから、私が仕送りするには当然だと思ってたし、それほど抵抗もなかった。
ただ、当時の母は「看護師して稼いでるんだから、お母さんを助けて当然でしょ」という態度(口にも出す)だったこと、感謝の気持ちがない(忘れていることが典型)ことに対して、私は言いようのない不満を感じていた。

また、そんな母親を見て、元夫の両親が思うところが多々あり。
私は常に、非常識な母の娘というフィルターを通して見られ続けた。
10年後離婚に至った時も、母という存在が大きく関与していたことは、元夫と姑の口からもはっきり聞いたし、原因の一つになったことは間違いない。

結婚していた10年間。母と婚家との確執で、間に入った私は常に苦しめられ続けた。

そして現在

パーキンソン病+レビー小体型認知症になり、幻覚も見えるようになった今。

幻覚の90%はお金にまつわるエトセトラ・・・・

「財布が無くなった」「お金を盗まれた」「財布の中にお金がない」等々

幼いころの体験から来る劣等感(これは不可抗力なので、私も理解している)、その後の人生の中でも常にお金に苦労(多くは自身の仕事や金銭管理のだらしなさが原因)が、今の幻覚に大きく影響を受けているらしい。

幻覚でまでお金に執着するなんて・・・と
姉弟集まると、母の奇行をネタにして笑い合い、愚行をつまみに酒を飲んでいつまでも盛り上がれる。
過去に憎しみあったこともある母だが、不思議と私たち姉弟はそんな母をそれほど恨んでいない。

子ガチャは絶対当りなんじゃない?お母さん。

安心介護のための見守りグッズ GPSの機能とメリットデメリット

アプリで位置情報確認

母が買い物に行くときは、必ず持って出るもの「財布」と「スマホ」
実はこのスマホを持って出るか出ないかで、迷子対策が大きな分かれ道となる

スマホに位置情報の確認できるアプリを入れておけば、迷子になっても確認できる。
行けるときは迎えに行く、行けないときは電話で指示を出したりできる。

迷子の時に電話で指示した時の笑い話。
母「ごめん。また迷子になった、どうしよう」
位置情報を確認して、すぐに帰り道を案内する。
私「そのお店の角を曲がって、まっすぐ行ったら着くから」
母「どっかから見てるの?」
とりあえず「そうそう、見えてるよ。角曲がって」と、見えてることにしておいた。

GPSグッズ

介護保険で使えるグッズはいくつかある。

靴タイプ、取り付けタイプ
https://itsumono-gps.jp/
https://www.mimamori.ne.jp/?gad_source=1&gclid=CjwKCAiA75itBhA6EiwAkho9e1Jho7VIgMAOpzincn4PnrzWMyO31w05Wpk1by46CW9N6Vpe1lvv5hoC6OsQAvD_BwE

靴のタイプの利用時に注意が必要なのは、この靴以外を履かないように全て隠さないといけないこと。
靴を履かずに出て行かれると一発アウトです。

取り付けるタイプも、そのグッズを持って行くことが確定していないと難しく、実際は活用できないことが多い。

実際母はお正月に迷子になったときは、靴も杖もシルバーカーも持たずに出ていた。
唯一スマホだけ持っていたので、位置情報確認できて助かった。
https://kaigogacha.com/sokkou_gacha/

GPSのデメリット

前述したように、GPSを使用してもそれを持っていなければ意味がない。
また、現在のGPS機能の限界で、小さいものにすると位置情報の精度がかなり下がる。
精度を高めようと思うと、その分大きく重くなる。
それをもって出るように工夫することが、更に難しくなるというのが現実。

我が家で使ってる見守りグッズ

我が家は自費で使っているのswichbot
転倒することも多いので、このカメラで確認することにしている。

このカメラから見た映像

多くはこの椅子で過ごすので、確認できる。ベッドも見えるので夜も安心。

外に出て行ってしまったときに確認できると思って、玄関の開閉センサーもつけたけど。
こちらは、ヘルパーさん出入りの度に通知が来るので、いつ誰が出たか分からず。
そのうち通知オフにしてしまった。

まだまだ課題が多い

GPSグッズにはまだまだ課題が多い。
母の場合はスマホは90%くらいの確立で持って出るのでまだ良いが、それ以外のGPSグッズだと実用性が少し低くなる。

カメラは室内しか見守ることができないので、やはり地域の住民の方や警察官の厚情に頼るしかないのが現状。

安全に安心して暮らせる地域に。

少しでも課題が解決できるよう、微力ながら何か力になりたいと思う。

「徘徊」ではありません!在宅で安心して暮らす地域の課題とは?

警察と顔見知りになる

「お母さまが保護されてます」
母が神戸に越してきてから、何度警察から電話がかかってきたことだろう。

私もスマホに表示される「110」を含む電話番号をみて、相手が話し出す前に「またですか?」と聞いたこともある。

「在宅での一人暮らしは無理です」と言われて覚悟していたことは夢だったかのように、退院後は元気に歩き回るようになった母。
毎日たくさんの来客もある(という幻覚が見えている)ので、冷蔵庫の中身が少なければ、毎日でも買い物に行って大量の料理を作る。

金銭面もさることながら、一番厄介なのが「迷子」だ。
生来方向音痴に加えて認知症も加わったため、90%の確率で迷子になる。

家に帰れなくなって警察に保護されること10回近く。
すっかり警察の常連になってしまった。

「徘徊」ではありません。施設入所が必ずしも幸せとは限りません!

警察の常連になることで、メリットとデメリットがあった。

メリットとしては、保護された時にすぐに連絡がつくこと。
「お母さま”また”保護されてますよ」となる。私の対応も手慣れてきた。

デメリットととしてただ一つ。
一度だけ警察官に食って掛かったことがある

怪我をして救急車で運ばれたこともある。
冬の寒い日に上着も着ずに外に飛び出して迷子になり、体が冷え切っていたこともある。

そんなある時、保護した警察官が言った一言
「こんなにしょっちゅう徘徊しているんだったら、施設とか考えたらいかがですか?
寒い日に迷子になったりして、冷え切って可哀想ですよ」

その一言は聞き捨てならなかった。

「徘徊という言葉は今は使いませんよ。母は徘徊しているのではなく、買い物に行きたくて迷ってるだけです。幻覚の恐怖から家を飛び出して迷子になってるだけです」

「母はまだ動けます。料理が大好きで、買い物をして料理をすることが生きがいなんです。それがリリハビリにもなって機能低下を予防するんです。施設に入ったらその全ての自由を奪うんですよ?今の母に施設入所が必ずしも幸せとは限りません。迷子になっても危険がないようにするのが地域の役割、警察の仕事の一つなんじゃないですか?」

言い過ぎたかなと思ったけど、言わずにはいれなかった。
私の剣幕に警察官は押し黙ってしまい、それ以後同じセリフを聞くことはなかった。

救急車の常連の利用者さん

当時、私が勤めてた定期巡回随時対応型訪問介護看護事業所#1で、精神科疾患の利用者さんのがいた。


不安が強く、救急車や呼んでしまったり、外に出て騒いだりすることがあった。
騒ぐと警察も出動する羽目になる。
救急車で実際に運ばれたこともあるし、対応に苦慮して立ち往生することもあった。
救急搬送できないとき、警察が出動したとき、必ず家族かそれに該当する人の対応が必要となる。
私も経験あるから分かるが、毎回毎回すぐに駆け付けることができないのが現状だ。


それでも、本人の精神面や経済的理由などにより、在宅での生活を選択。

事業所スタッフが家族の代わりに対応し、ご家族の負担を軽減させることで、在宅生活を継続することができたという経緯がある。

在宅介護の限界点、地域の課題

認知用サポーターという取り組みがある。
認知症の正しい理解と対応方法を学び、認知症に優しい地域づくりをするというのが目的。

ちなみに。外に出ると危ないからといって、外から鍵をかけるのは「虐待」に該当するので禁止されているので、自由に出入りできる状態維持は必須。

外に出てしまった時、迷子になってしまったとき。
地域の人の見守り・警察官などの協力で安全が確保できれば、在宅介護の限界点はもう少し上げることができるのでは?

明日は我が身。
私たちが高齢になる時に、自分たちの安全が確保できるような社会を作るのは、自分自身とその地域の役目ではないだろうか。

#1 定期巡回随時対応型訪問介護看護とは

訪問看護員等が、24時間体制で定期的に利用者の居宅を巡回して、入浴・排泄・食事等といった日常生活の世話を行う。緊急時はナースコールのような端末によって通報ができ、状況に応じて随時の対応ができるサービスである。
神戸市内では各区に2か所程度の事業所がある。

看護師にだけは絶対になりたくない!と言っていた私が毒親の訪問看護

「大学に行かせるお金はないよ」

母子家庭、姉弟3人の長女。
高校受験の時は「私立に行かせるお金は無い」と宣言されていた。
頑張れば合格できる可能性のある高校は「万が一落ちたら高校に行かせてもらえない!!」という恐怖のため受験を断念。
確実に合格できる高校を選択した。

大学受験のタイミングでも母は
「大学に行かせるお金はない。就職して家計を助けて欲しい」と宣言。
お金がないなら仕方ない。素直に就職するという進路を選んだ。

ところが。
ランクを落として入学した学校なので、一応ジャンルで言えば「成績優秀」
先生が進学をあきらめてくれなかった。

その時たまたま回ってきたのが、定時制の看護学校の推薦の枠だった。

先生!看護師にだけは絶対になりたくありません!

それまで、自分が看護師になるなど1度も考えたこともなく、
むしろ、絶対になりたくない職業だった。

先生!
私、自分の怪我の血を見ても気分が悪くなるんです。
夜の病棟の見回りとか、怖すぎて絶対無理なので、看護師だけは無理です。

その時の担任に放った言葉は、今でも一言一句覚えている。

夜の病棟はそんなに怖くなかった

「とりあえずここだけ受けろ。ここが合格しなかったら好きにしていい」
担任に押されて渋々受験した看護学校だったが、運よく(運悪く?)合格してしまった。

そして今に至る。

全身全霊で拒否した看護師だったけど。
始めてみたら、想像してたより夜の病棟の見回りは怖くなかった。
人の血なら、怖くなかった。

意外と行けるどころか、実際は何度もこの資格に助けられた。
離婚したときにすぐに就職することができた
子どもを育てていくのに十分な収入を得ることができた。

余談だけど。
離婚理由は元夫の浮気が本気になったパターン。
「結婚したい人がいるから別れてくれ」と言われ
「うーん、看護師の資格もあるし、何とかなるかなぁ」とぼんやり考えて承諾した瞬間を思い出す。
姑からは「何んで”貴方がいないと生きていけないんです。別れないでください”と言えなかったの?」と責められたが
「だって、生きていけると思ったんだもん」と思ったことは口に出さずにいた。

巡り巡って、毒親の訪問看護

看護師をしながら、息子と娘を育てる生活が始まった。
いつの間にか私は、訪問看護ステーションを設立まですることになり、存分に看護師の資格に助けられたことになる。

そして
60代でパーキンソン病を発症した母は、誰かの世話にならないと生きていけなくなる。
「あんたの世話にはならん!」と豪語していた母と、「看護師なんて絶対になりたくない!」と言っていた娘の私の介護生活は現在進行形なのである。

緊急訪問も夜間の訪問も可能 在宅で介護を続けられる理由

突然の救急搬送からの入院

大阪で一人暮らしをしていた母。
それは、救急隊員からの1本の電話から始まった。母を救急車で搬送するとのこと。


救急搬送は今に始まったことではなく、ここ数年で何回か繰り返している。


私自身も看護師という職業上、それほど重要視はしていなかったが、今回は事情が違った。

自宅で一人暮らしは無理かもしれない。施設を考えてください

今回の入院は、酷い便秘と尿路感染症。
ケアマネから聞いた主治医の見解はこうだった


「バルンカテーテル(膀胱留置カテーテル)を入れていたが、それを抜くと自然に尿が出なくなってしまった。このままカテーテルを入れたままの生活になります。一人暮らしは無理だと思います」

私の出番だ!

私が看護師でなかったら、または訪問看護業界にいなければ、きっとここで諦めただろう。


ところがどっこい。
当時の私は訪問看護業界在籍10年、更に言うと24時間で介護を行ってくれる定期巡回随時対応型訪問介護看護という事業所に勤務していたのだ。

バルンカテーテル留置状態だって、在宅生活は全然可能である
私の中で、それほど大きな問題にはならなかった。

また、パーキンソン病は脳内のドパミンという物質が不足して、体の動きが悪くなる病気。
治療法として、血中のドパミンを安定させるために、1日に何回もドパミンを内服する必要がある。


ドパミンを飲み忘れると血中濃度が不安定になり、動けなくなってしまう可能性がある。


認知症があると、薬の飲み忘れや過剰内服などの危険性があり、見守りが必須。
通常の訪問介護なら、複数回の服薬のために訪問することは難しいが、この事業なら複数回訪問も可能である。

定期巡回随時対応型訪問介護看護とは?

定期巡回随時対応型訪問介護看護は介護スタッフが24時間体制で介護を実施してくれる。
夜間のオムツ交換や、ナースコールのような端末を活用して緊急訪問もしてくれる。

医療の必要な人は、訪問看護のサービスを付けることができる。

在宅介護の強い味方である。

引っ越しをして在宅生活開始

今回の病状を弟たちとも相談し、引っ越しをして私の住む地域で生活させることに決まった。

当時母は大阪に住んでおり大阪の医療機関に入院中。
住むところを探すために一旦神戸市内の病院に転院し、大阪に住む弟に手伝ってもらって引っ越し。
住居の準備ができたタイミングで退院になった。

実は、母のバルンカテーテルは退院直前に抜くことができ、かなり良い状態で退院することができた。


実際医療の手はそれほど必要ではなかったけれど、引っ越しのタイミングとしては良かったのではないかと思ってる。

あまりにも元気すぎて、その後に様々な事件を起こすことになるのだが、それはまた別の機会に・・・


母は「毒親」だった 親ガチャはハズレだったのか?

母は毒親だった?

母ま今で言う所謂「毒親」だったのかも。そう思い始めたのはつい最近のことだ。
父親は私が小学校5年生の時に病死して、それ以後母が私たち姉弟を育ててくれた。


父が死ぬ前に伯母から「お父さん死んだらお母さんがお父さん代わりに働くから、ゆつきちゃんはお母さんの代わりになってね」と言われた。


私はその当時から弟の面倒見たり、家事も手伝っていたりしたので、今までよりも更に頑張って手伝った。

中・高校時代の記憶

母親は一番働いていた時は、昼も夜も働いていた。その分私が家事をして助けた。
ただ困ったことに、母の勤務先が安定しなかった。

もともと手に職が無く、仕事があるだけラッキーなのに「職場で嫌な人がいる」とか「喧嘩したからとか」「給料安いから」とか、子どもみたいな理由で仕事を辞める。
日給の仕事なのに、雨が降ってるから今日は休むとかも日常茶飯事

高校生当時の私は「ちゃんと仕事続けた方がいいんじゃない?」「毎日働かないと給料少なくなるんじゃない?」とは薄々思って伝えたこともあったが、現状が変わることはなかった。

パチンコ好き


休日はパチンコに行く。
「毎日頑張って働いてるんだから、休みの日くらい楽しいことさせて」と言うのが母の言い分。
もちろん、家事は放棄。当然負けるので、家計はますます苦しくなる。

ある日、朝からパチンコに出かけた母が昼過ぎても帰ってこなかった。
お腹を空かせた弟たちに、ご飯を作るかどうか迷う。
ひょっとしたら何か準備してるかもしれないから「もうちょっとだけ」と母の帰りを待った。

昼食の時間をかなり過ぎて帰宅した母

「今、パチンコ出とるから。これでほか弁でも買って食べといて」
と千円札を数枚置いて、矢のように飛び出して行った。

当時ほかほか弁当を買えるのは「たまの贅沢」の感じで、とても楽しみだった。
ただそれは最初の数回だけ。
何度も続くうちに、独特のあの油と味が胸やけするようになり、食べられなくなってしまった。
(この当時のことがある種のトラウマになり、私は今でもほか弁やコンビニ弁当が苦手だ)

とにかくお金にはルーズ
子どものことより自分のことを優先しがちな所が多い母親だった。

このような出来事は他にも山ほどあって。
私が定時制の看護学校に行き始める辺りから、お金に纏わるエピソードは山ほどある。
何度泣いたか分からない。
これらのエピソードを話すと長くなるので、また別の機会に。

高齢になると子どもに戻る

私が看護学校に行き、看護師になり、結婚して子どもも生まれ、そして離婚。
その間に多くのトラブルがあり、確執があり、お互い罵り合った日もあった。
正直、私も母を憎み恨む日も多かった。

ただ不思議なことに、母親が年齢を重ねるにつれ、その確執も徐々に和らぎ。
お正月やお盆に帰省したときは、当時の母の愚行を姉弟で笑い話として話せるようになってきた。

時は気持ちを和らげるのか。
高齢になると子どもに戻るというが、まさにそんな感じ。
私たちも穏やかに接することができるようになった。

母親の愛情を知らない母

「毒親」という言葉を耳にするようになったのは、ここ数年のことだと思う。
なので、後から思い出してみるとまさに「毒親」に分類されるのかも。と最近になって思うようになったが、単純に「毒親」と分類するほどでもないとも思ってる。

母は生まれてすぐに実の母親が亡くなって、継母に育てられている。
真相は分からないが、母曰く「相当虐められた」とのこと。
母は「本当の母親の愛」を知らずに育ったので、自分の子どもにも「母の愛」を与えることができない人なのだと思う。

自己愛が強い。子どもよりもまず自分を優先してしまう。
母自身が子どものまま大人になってしまった人なのだ

毒親なのかもしれないけれど、好きでそうなった訳じゃない
そこだけは受け止めてあげたいと思う(腹立つこともあるけどね)

「あんたの世話になんかならへん!老後も一人で大丈夫や!!」


私たち姉弟は、今は母をそれなりに大事に介護している。
私たちからしてみたら「親ガチャ」としてはハズレの部類だったのかもしれないが、母からしたら「子ガチャ」は当りだったんじゃない?
というか。そもそもガチャって当りとかハズレとかではなくて「思ってたやつなのかそうじゃないか」の違いなのかもしれないな。

「あんたなんかの世話にはならんわ!」と啖呵切ったことある母ですが。
今めっちゃ世話になっとるで。感謝しろよ!

パーキンソン病79歳側溝に嵌る 介護はいつもガチャの連続

2024年始まって早々1月3日 母が側溝に嵌った。


79歳パーキンソン病+レビー小体型認知症。
薬の副作用×病気の症状で、常に幻覚が出やすく、これまでにも何度も警察のお世話になっている。
「家に火をつけらえた!」と、夜中に裸足で飛び出して110番通報
「娘が風呂場で縛られている」と110番通報
その都度呼び出されるのは私だ。夜中であろうとお構いなく・・・

警察に保護されたときどうする?

一番多かったのは「迷子」
本来のせっかちな性格、方向音痴、幻覚、認知症、不慣れな道(高齢になってから引っ越した)
迷子の要素を全て兼ね備えていて、一度買い物に出たら90%家に戻れず警察に保護される。
これもまた、昼夜問わず呼び出されるのは私だ。勘弁してくれ・・・と言いたくなる(いや、実際言った笑)

ちなみに。
迷子で警察通報されたら、警察は必ず誰かに引き渡して書類にサインをもらわないといけない。
仕事中だろうが、呼び出される。
困るのが警察署に連れていかれること。
警察署まで連れていかれると、私はそこまで迎えに行ってサインをして、そこから連れて帰らなければならない。
車を持っていない私は、シェアリングカーかタクシーを利用しないといけない。
迷子5回を超えたあたりから私も慣れてきて
「警察署に行かないで!家に連れて帰ってもらえませんか?家に向かいます!」
と言って連れて帰ってもらう術を身につけた。

最近は転倒も増えてきてあんまり歩けなくなってきてたから、外に出ないので迷子になることもなくなっていた。
すっかり油断していた。

訪問看護で訪問

訪問すると家にいない

私は訪問看護師として、母親の訪問看護にも行っているのだが、この日は訪問の日だった。
訪問すると家にいない。そんなはずはない。デイサービスでもないし、ここ半年ほど外には出ていない。押し入れの中、トイレの中、お風呂の浴槽の中まで探したけどいない。
ちょうど訪問してきた介護スタッフとも手分けして近隣を捜索。
1時間ほど探し回ったが見つからない。事故などの最悪の状態を想像し、今回は初めて自ら警察に赴いた。
警察で事情説明している間に、弟が携帯の位置情報で位置確認。ほぼ同時のタイミングで救急車から連絡が入る。

え?側溝に嵌ってる??

この狭い側溝の中に嵌っていたらしい。自宅から500mくらいの場所だった。
いや。ここ、何回も通ったのに見つけられなかった。
ひょっとして溝の中にいた??

(どうでもいいけど神戸は何でこんなに蓋がされてない側溝が多いんだ?)

擦過傷程度でした

現場に到着すると、母は救急車に乗せられていた。でも、手や膝の擦過傷、頭にも傷はあったけれど意識もしっかりしてたので、自宅に戻ることに。
(救急車が自宅まで送り届けてくれた。感謝!!)
この溝に落ちて嵌って、擦過傷で済んだのは奇跡としか言いようがない。
私の家系の伝統「こけかたが上手」「骨が丈夫」
ご先祖様&遺伝子に感謝🙏

往診

念のため主治医に連絡し、往診してもらう。
動きが悪くなったのでパーキンソンの治療薬であるネオドバストンの量を増やしていたのだが、そのことにより幻覚が悪化、動きも良くなることで多動性も出てきてしまうことが原因の一つであるとのことで、薬は減量に。
動きは悪くなるけれど、危険行動と天秤にかけたら、動けない方が安全と判断。
(パーキンソンと薬については後日説明します)

介護はガチャの連続

母の介護を本格的に始めたのは2年前。
大阪で一人暮らしをしていた母だが、救急搬送され入院することが増えてきたので、私の家の近くに引っ越しすることにした。
訪問看護で介護看護には慣れていたけれど、実際に自分の家族を介護するのはまた少し違う。
毎日思わぬ事件が現れる。
まるで毎日ガチャを引いてるみたい。
それでも、母もそれなりに生活を楽しめて、大きな怪我無く過ごしていけるのなら、ガチャはそれなりに当りが出ているということにしとこう